200804 面倒くさい話ができる貴重さ

言葉を尽くすにはとても体力がいる。

まずは誤解されたくない。100%とはいかなくとも、なるべく純度を保ちながら伝わってほしいと思う。

しかし伝える相手によって、その出力方法は臨機応変に対応しなければならないので厄介だ。相手の性格や立場、自分との関係や価値観などを丸無視した原液では、望みと真逆の結果を生みかねない。言葉は使い回しの効かないオーダーメイドなのだ。


そのせいか、何を伝えるにも、相手が言葉を尽くすに値するか、どこか天秤にかけている感覚がある。値しない(言っても伝わらない)とわかる場合、わたしは多分伝えることを諦め、黙ってしまうだろう。


処世術として「問題ない返事」がさらりとできる人に、いつも憧れてしまう。「嘘をついてかわす」という引き出しが自分にはないからだ。

確かに正直に伝える必要がない場合なんて、いくらでも遭遇する。言葉を尽くすには体力がいるのに、バカ正直な性格なおかげで自ら疲れを誘発してばかりだ。


誰と会うにも一定の気合いと元気が必要だし、積極的に会いたいという気持ちにならないのは、大方これが原因だろう。

誰かと関わること=言葉を尽くすこと=ライフポイントを大幅に消費すること。生きることはとても大変なので、関わらずに温存できたライフポイントで他の部分が賄えるならそっちの方がいい。そう思って、なるべく人と関わらないで生活できる道を選び、今の自分があるのだと思う。


気の置けない友達に会うと、こんな話ができるのは彼女だけだと感じることがある。

この関係を築くまでの理解の積み重ねを想い、こんな風に今「面倒くさい話が(お互いに楽しんで)できる」関係はなんと貴重なことだろう、と実感する。


文字にしていく中で、わたしは他者の存在をあってもなくても困る、白黒つけがたいものだと感じていることが分かった。なるべく余分な部分をそぎ落とし、残った部分を後生大事に暮らしていけたらと思う。

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