貴方は大丈夫ですか?
どうも梟です。
今日は極端な暴言とかもちょっと抑えた感じで、
真面目に語ってみたいと思います。
ちょっと長い(約5000文字)なので、
本当に暇なときにでも読んでください。
【第1章】 「綺麗事をいうな」
前々から私が提言している「綺麗事を言うな」
この言葉を勘違いしている方があまりにも多い
そもそも人間というのはエゴの生き物だ
誰しもが基本的に「自分が一番」で「自分が大事」という事が前提であり
君たちがいう「みんな大好き」は「自分に良くしてくれる人が好き」
「大事な仲間」は「自分に都合のいい人」なのである。
これを言うと大半の方は「そういう発想は良くない」等と宣うが、
これが真理である。
君たちの言う「みんな大好き」の「みんな」は
自分にとって利がなくなった時点で嫌いになる。
「大事な仲間」も都合が悪くなったら切り捨てる。
その程度の関係でしかないという事に気づく必要がある。
でも君たちが「気づけない」「説明をされても気づかない」
これは仕方のない事ではある、それは何故か。
次章で解き明かしてみよう。
【第2章】 「綺麗事」の危うさ
君たちが「綺麗事」を常用するに至った経緯は簡単に言うと
それは「世間」のせいである。
少し踏み込んで考えてみよう。
まず初めに「綺麗事」を世の中に浸透させた諸悪の根源は「メディア」だ
彼らはあくまで「ビジネス」という観点で動いている。
芸能人しかり、企業CMしかり、彼らが大衆に求めるものに
「好感度」というものがあるが、
こいつを手に入れるためにはどうすればいいか。
簡単な事だ「大衆に受け入れられる様なイメージ」を作ればいいのである
「基本的な一般人」というのは美麗字句が大好物だからそれを並べればいい
「良い人」「いい企業」などを連想させる為に「綺麗事」を多用する訳だ。
それで好感度が手に入れば、その実どうであろうとその時点ではお構いなし
後で問題が露見するまでは「綺麗事連チャン」が続く、という
ここまでが基本セットなのである。
イメージしやすくしてみると「野々村竜太郎」や「船場吉兆」とか
この辺りを想像していただきたい。
野々村氏も元々は民衆から支持される様な人物であり
「世の中の為」と謳い県議会議員になった程の人である。
船場吉兆に関しても元々は名店として店を構える高級料亭であり、
食を愛する方々からの支持を受けていた訳だ。
しかしどうだろう
どちらも結果的には犯罪と言って差し支えない様な行為をしており
今までの支持者を裏切るような結末を迎えているではないか。
この件で「誰が悪い?」となればもちろん前述の両者であるが、
この両者が「悪」である事を見抜けなかったのは何故か、
それは支持者が両者の「綺麗事」を信じてしまっていたからである。
そう、「結果的な悪」というのは両者でも
支持者には「綺麗事」を見抜けなかったという落ち度がある訳だ。
これにより「綺麗事」が如何に危ういものか、という事がわかるだろう。
【幕間】さて、本題に入る前に。
ちなみにここまで読んで「なんのこっちゃ?」と思った貴方
貴方には3つの選択肢がある。
-----------------------------------------------------------------------
①理解するまでよく考えて読む(又は筆者に聞く)
②今は理解していないがとりあえず読んでみる
③「こいつ何言ってんだ?」と閉じる
-----------------------------------------------------------------------
言うまでもないと思うが、私としては①か②をお勧めする。
勿論③を選ぶのは構わない、浅慮な自分を自覚できずに去ればいい。
ここから先は①と②を選んだ人のみが知ることができる話をしよう。
【第3章】上辺で塗り固められた世界
2章では「綺麗事の危うさ」についてサラっと説明したが
ここではもう少し踏み込んでみようと思う。
今世間では前述の「メディア」の「綺麗事」が変わらずある訳だが、
昨今新しく「綺麗事」の活躍の場が増えた事例がある
それが「罰則緩和」と「SNS」だ。
※分かりやすく上の2つの名称を使わせてもらっているが
本筋はこれに限らないのでそこだけご注意
まず「罰則緩和」だが、
一番顕著なのは「学校」だろう
昔は悪い事をすれば先生に叱られ、体罰も辞さない
それが今の世では悪い事をしても先生は体罰はもちろん
叱責も許されず生徒の顔色を窺った「注意」に留まる始末
これも「世間」が教職の権利を奪ってしまったのが始まりだ
もちろん、私も体罰や過度な叱責を推奨する訳ではない。
ただどうだろう、大人の世界に置き換えたらわかると思うが
「悪事には罰則」がつきものである。
悪いことをすれば罰を受けるのは
警察機関がある時点で日本では当たり前の事なのである。
車乗ってちょっと道端に駐車しただけで罰金を取られるのに
何故生徒たちは罰を受けることを免れて居るのか
私は前から大分疑問に思っていた。
それもこれも世間が
「体罰はダメ」「叱るのはダメ」「可哀そう」
等と「綺麗事」を言い始めたからである。
子供だろうと何だろうと、罪を犯せば罰は必定で
口頭で罪の重さを説いても理解しない者には体罰も致し方ないのだ。
言葉の通じない動物に鞭を振るうのは、
「痛み」を与える事で
「これは二度と受けたくない」=「もうしない方が良い」と理解させる為
言葉の通じない動物に褒美を与えるのは、
「利益」を与える事で
「自分にとって良いものを貰える」=「これはまたやろう」と思わせる為
こういう仕組みがあるのであって決して間違いではない。
この仕組みが悪いのではなくで体罰や叱責の「程度」の問題なのである。
それを馬鹿みたいに一緒くたにして「体罰はダメ」などとしてしまうから
子供たちが善悪を己が身に刻む機会を失ってしまい
昨今の少年犯罪などが誘発されてしまうのである。
また、そんな中で「SNS」が輪をかけて「綺麗事」を助長させる。
私もYouTubeやらTwitterなどを嗜むが、
「本当に一部」を除いたユーザーには辟易している。
そもそも「SNS」とは「不特定多数の人間と繋がることができるサービス」
最初はミクシィやらフェイスブックやらもただの「交流」に過ぎなかった。
それがどうだろうか
今や「SNS」は「不特定多数と繋がるサービス」であり
立派な「ビジネスツール」でもあるのだ。
そうここ数年で「YouTuber」「インスタグラマー」「インフルエンサー」等
「SNS」で職をなす人間たちが増えたのである。
これらの職は「手軽く始められる」「誰にでもチャンスがある」といった
「利便性」が非常に高く、かつ「楽して一攫千金」の夢を孕んだモノだ。
私も含め「なれるならなりたい」と思う方が多いだろう。
そんな願望がひしめく「SNS」だからこそ
その職に憧れ、模倣する連中はごまんといる訳で……同じことをする訳だ。
上の職を成した人間たちは最早「ビジネス」として「SNS」を運用し、
その中で発する言葉には「綺麗事」がたくさん散りばめられている。
それもその筈、
2章でお話しした通り「ビジネス」には「好感度」が必要だからだ。
心にもない「綺麗事」を発信して
「この人良いこと言う」みたいに思われるのが狙いなのである。
これが私にとって最近「目の上のたんこぶ」であり
いつも苦言を呈する部分な訳だ。
どの職の人間も美麗字句を並べては「いいね」欲しさに発信する
「綺麗事」で固めた偽りの自分を「私はこういう人間です」と見せて回り
その実、裏では何やってるかもわからない。
しかし、そんな人間たちをもてはやしては「綺麗事」で褒め称える信者
私からしたらどっちも気持ちが悪い生き物だ。
そんな信者(大衆)もやはり憧れから模倣する
そう、まだ「ビジネス」まで昇華していない自身の発信を
「綺麗事」で固めるのだ。
まぁ大衆も好きなもんだから、その「綺麗事」も受け入れられる。
そうして「綺麗事」が「綺麗事」を呼ぶ
「綺麗事スパイラル」的なものが爆誕するって訳だ。
正に「上辺で塗り固められた世界」がここに出来上がるという仕組み
勿論、すべてが「綺麗事」とは思っていない。
私みたいに「綺麗事」を世辞以外で使わない人間もいるし
「綺麗事」が基本の方でも本心からの言葉が漏れる事もある。
でも圧倒的に今の世は「綺麗事」が多い
上っ面で作られた世界、思慮深くいなければそれに気づけず
本質の見えない人間が出来上がってしまう
これも私が危惧し、よく呈する事の一つである。
人間の本質というものはもっと下卑たものであり
本来そこに「綺麗事」の介在する余地はない。
無理やりに「綺麗事」を当て込んだ結果がこの始末
本質、本心を出す事が不便な世の中になってしまった。
マスメディアも「コロナ感染防止」を謳っておきながら
「オリンピック特集」を同番組で繰り広げ
YouTuberと政治家は善人ぶってコロナ禍の深夜飲み会を楽しむ
善人ぶらずは人に非ず、本心のまま自分を見せられないこの世を
貴方はまともな世と言えますか?
【最終章】これからの生き方
ここまでお付き合いいただきありがとう。
もう終わりになるのでもう少しお付き合いいただきたい。
さて「これからの生き方」だが…
今まで通り「綺麗事」で作られた世界に甘んじて生きるか
「綺麗事」を掻き分けてもっと物事の本質を見る姿勢を持つか
それは皆さんがそれぞれ決めればいい。
ただ私は、物事を思慮深く見る事を辞めない
今は何者でもなく、そしてこの先も名を残すような人物になれずとも
この姿勢は間違いなく真理である事は確証を持って言える
仏陀は悟りを開き、人に道を説いた
私は仏陀ほどの事はしてないし、カリスマ性もないが
自分のこの考えだけは仏陀の悟りに比肩するモノだと自負している。
誰の言葉でも「発言者の真意が100%全員に伝わる」という事はない
でも誰かに、誰か一人にでもこの考え方が伝わり
本質を見る目が少しでも養われる事を願います。
【あとがき】※口調は穏やかではないかも
ここではクソまじめな話方しないので
暴言的なのを見たくないとかあればスルーしてください。
ここから先は
¥ 100
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?