無思考の賛同で世界は変わらない
Twitterのトレンドに「雄ひよこの窒息死・圧死を禁止してください」というものがあった。
見てみると、change.orgに投稿されたキャンペーンで、「卵を産まないオスのひよこは、食用に育てられるでもなく殺処分されている。農林水産省に、オスひなの非人道的な屠殺を廃止してほしいと伝えるために、署名に是非ご協力のほど、宜しくお願いいたします!!」というものだった。
一昔前、「絶対に検索してはいけない言葉」とかいうものの中に「ひよこミキサー」というのがあったな、と思い出した。
オスのひよこが卵を産まないからという理由だけで殺されているのは、確かに可哀想。
そんな世界なくなればいいのに、とわたしも思う。
でも卵は大好きだし、鶏肉も大好き。
わたしはどちらも食べたい。
しかもできればおいしいものを食べたい。
さて、どうすればいいんだろう。
もちろん、今回のひよこのキャンペーンが悪いとか言っているのではない。
この発起人は問題提起し、行動しようと立ち上がったのだから素晴らしいと思う。
ぜひ、農林水産省に届いてほしいと思うし、動向を見守りたい。
ただ、受動的にネットの海に無数に転がる一見「可哀想」な話をそのまま受け取って哀れみ、SNSに呟くだけでまるで世の中のために何かをしたような気になっている「思考停止人間」が増産されていることには疑問を感じる。
何かを批判したいわけじゃない。
誰しもが思考停止人間になってしまう可能性があるし、その方が楽だと自ら進んで停止させてる人だっていると思う。
だけどわたしは、思考を停止させることは成長することを諦めることと同じだと思う。
だから今日も今日とて諦めず、誰が読んでいるかもわからないこのnoteで思考してみる。
死ぬことは可哀想?
例えば、動物虐待について。
もちろん、動物を非人道的に殺す権利など誰にもない。
犬や猫は可愛いし、人と同じ命なのだから、モデルガンで撃つとか、脚を切るだとか、そんな酷い虐待のニュースを目にすると心が痛む。
そんなことをする人間は捕まり、裁かれるべきだと思う。
ただ、話をどんどんと飛躍させていくと、アレ、じゃあわたしが食べてる牛や豚はどうやって殺されているんだろう?不快というだけで殺しているゴキブリは?蚊は?と思ってしまう。
赤ちゃんや子どもの虐待のニュースは、心が辛くなるし見たくもないからテレビで流さないでほしいと常々思っているが、地球の裏側では戦争や貧困で毎日何百、何千人という子どもが命を落としている。
目に入りやすい日本国内の赤ちゃんの虐待は可哀想だと胸を痛めているけれど、地球の裏側で死ぬ赤ちゃんのことは知らぬ存ぜぬ。
自分はペットを飼っているから、子どもがいるから、虐待なんて許せない!とSNSで騒ぐ人がいる傍らで「また人身事故かよ、電車遅れてるし最悪」とツイートする人もいる。
日本の昨年の自殺者は約21,000人。
先月は1,600人以上が自殺している。
つまり、死ぬって本当に毎日そこら中にある。
この世に「生」がある以上、「死」はつきまとう。
わたしたちは全員等しく、いつかは死ぬ。
犬や猫やひよこと同じく、いつかは死ぬ。
Googleで脳死とか、安楽死とか調べてみたら、2〜3の記事を読むだけで死の尊厳について考えさせられる。
最近では「終活」なんて言葉もある。(死と向き合い、自分らしく人生を終える準備をすること)
当事者意識
「死ぬこと」はどこか遠い世界線のことだと思わずに、身近に捉えた上で、そもそも自分はなぜ生きているのか?とか、なんのために生まれてきたのか?とか、大人になって真剣に考えたことがある人ってどれくらいいるだろうか。
わたしはよく考えているけど、それでも明確な答えはわからない。
でも、少なくとも、より良い人生を生きたいと思うし、わたしの子どもの、そのまた子どもの、、、どんどん先の未来まで平和な地球があればいいな〜とは思う。
まぁそんなことは当然で、「これからも平和な世の中」か「どんどん劣悪になる世の中」か選べと言われたら誰しも前者を選ぶと思う。
では、「未来が平和になるか、劣悪になるかはあなた次第です。平和のためには地道にコツコツ努力しなければいけません。でも、あなたはいずれ死ぬので、未来の世界を生きることは出来ません。ちなみに、未来が劣悪な環境になっても死んだ後のあなたに何の影響もありません」と言われたらどうだろう。
途端に、「じゃあまぁ別にいいか」と思う人もいるのではないだろうか。
だって、自分の人生に関係ないし、と。
誰かが(例えばあなたが)本気で何かを変えたい!と強く思って行動するのは、その何かが自分ごとであるからなのだ。
言葉の通じない犬や猫の保護活動にせよ、遠い世界の紛争問題にせよ、ゴミ問題にせよ、「自分の人生と同じ(くらい大切)だ」と思うから行動しようと思えるのだ。
「犬や猫やひよこの命を守りたい」と思う気持ちは倫理観としてほとんどの人間が持ち合わせているのに、「自分の命と同じくらい大切だから守りたい」と言って実際に保護活動に参加したり、募金したりする人は少ない。
この差こそが当事者意識に他ならない。
自分ごとと捉えているかどうかが、行動するかしないかの差である。
思うだけ、言うだけなら簡単だけど、本当の意味で行動するのは難しい。
でも、行動しなければ当事者とは言えない。
わたしの当事者意識
わたし自身は、世界中の貧困による教育格差がなくなればいいな、と思っている。
それはわたし自身が子どもの頃、「お父さんがいなくて、貧乏で、可哀想ね」と言われて育った経験に基づいている。
貧乏だからといって必ずしも心まで貧しいわけではないし、貧困家庭に生まれても楽しく暮らしている人だっていると思う。
だから貧困=悪とは言えないものの、貧しいが故に正しい教育が受けられず、自分の人生を選択する権利を奪われている子どもがいるのは許せないし、怒りを感じる。
「大学なんて行けないよ」「一人暮らしなんて無理だよ」「お母さんの面倒を見なくちゃ」と子どもの頃から刷り込まれるのはとんでもない悪だと思う。
わたしは子どものとき、生まれる場所は選べないという「理不尽さ」を常々感じていた。
わたしはたまたま日本に生まれたから義務教育を当然のように受けられたし、読み書きも自然と身についた。
でも、世界中にはたまたまその国に生まれたことで圧倒的なハンディキャップを背負っている子どもたちが沢山いる。
わたしは、日本なら当然小学校に通う年齢の子どもが、家族のために何キロも歩いて水を汲みに行かなければならない上に、そのおかげで読み書きが出来ないなんてとんでもなく理不尽だと感じる。
そういう思いから、色々と調べて、2年前からワールドビジョンのチャイルドスポンサーシップに参加している。
毎月4,500円の寄付が、自分のチャイルドが住む地域の下水道整備や保健・栄養改善、教育などに使われるというものだ。
あとは、小さい話だし当然だけど、ゴミの分別を心がけている。
ゴミの埋立地は有限だし、毎日シャンプーしたり皿洗いしたりでただでさえ水を汚しているし、食べて寝てトイレに行くだけでもゴミは出てしまうから、せめてリサイクルできるものの回収には協力したいと思っている。
チャイルドスポンサーシップも、ゴミのリサイクルも、自己満足と言ってしまえばそれまでだ。
たった毎月4,500円で世界の貧困がなくなるとは思わないし、ペットボトルを分別しただけでゴミ問題が終わるとも思わない。
でも、何もしていないよりはいいと思うし、少なくともどこかで誰かの役には立っていると思える。
それは、SNSで可哀想な写真や動画を見て「可哀想!許せない!」と言っているだけの人とはわけが違う。
必然的な理不尽
可哀想で、許せないものがこの世には本当にたくさん溢れている。
でも残念なことにその全ての問題が一挙に解決することはありえない。
この地球で意思ある人間が暮らす以上、国があって、お金、政治、宗教、法律がある以上は色んな格差や矛盾やしがらみだらけなのだ。
それでも、自分が大事にしたいこと、許せないことのために考え、行動することはできる。
それを継続することによって沢山の国が、歴史が、人の意識が動いてきた。
女性の権利、LGBTQの問題などをとってみても、100年前からは想像も出来なかった世の中になったと思う。
だから、「死ぬ」という当然のことを「可哀想」と一括りにして「拡散」し、正義を果たした気になるのではなく、その問題の根源にある矛盾を理解し、本質的、現実的にやるべきことは何なのか考えられる人間でありたいと思う。
虐待し、痛めつけられている動物の動画を見て「酷い!可哀想!拡散してください!」と無思考でリツイートすることにほとんど何の意味もないのだ。
仮にその動物が何らかの形で救出されても、本質的な問題を解決しなければ同じことは繰り返される。つまり、無駄なのだ。
本質的な問題に対する行動はとても地道で、小さくて、何だかつまらなく思えるかもしれない。
このペットボトル1つ洗って分別したところで、何が変わるというんだろうと思うかもしれない。
でも、意識が変われば行動が変わるし、行動が変われば生活が変わる。
その積み重ねが世界を変えるとわたしは信じているし、そうであってほしいと願う。
こんな話を真剣に読んだり、または聞いてくれる友人や彼氏がいることは、わたしが生きる世界の希望に他ならない。
ここでパスカルを引用しておく。
「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。 しかしそれは考える葦である。」
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