見出し画像

⑬ブログの話に飽きました。松陰先生どうしましょう?

さて、ブログの話も少し飽きてきたので、全然関係ない話をします。

皆さんは吉田松陰を知っていますか。

日本史の授業でなんか出てきたなあってそんな感じですよね。

一応教育者とか思想家と言われることが多いようですが、何をした人かは調べてみてくださいね。

あ、知ってますか、そうですか。

特に信奉しているというわけではありませんが、エピソードが破天荒で面白いのでちょっとご紹介しますね。

話のネタにでもしてください。

ビギナブログ | ブログ初心者

吉田松陰のエピソードとして、有名なものはいろいろとありますが、中でも面白いのはやっぱりペリー来航に関わるものですかね。

話の展開にマンガ的な面白さもあります。

ペリーの話は時代的に色んな見方があって、強硬的な恫喝外交といわれることも少なくないですが、実際はペリー側もいろいろ事情を抱えたままの平和的な外交だったともいわれています。※軍艦4隻も引き連れて来て平和的もクソもありませんけどね。

アメリカが日本を開国をさせたがった理由がアメリカの捕鯨船の寄港地にしたかったから、という話がありますがあれは本当なんでしょうか。

ペリー来航により、当時日本中がパニックになったというイメージがありますが、実はパニックというよりはお祭り騒ぎ的なものだったという見方もあるようですね。

もちろん、幕府は大騒ぎだったと思いますが、庶民は野次馬的なイベントとしてとらえていても確かに違和感は感じませんね。

まあこのへんは、どのストーリーを採用するかで見え方は変わってくるので、何ともですが。

吉田松陰の話もそうで、破天荒エピソードの一つとしては、ペリーにアメリカ行きを直談判したというところが破天荒で面白いというところですかね。

しかし調べていくと、微妙にエピソードの印象が変わっていくんですよね。

まあ、個人的な印象も含めて書いていきたいんですが、軽い感じで書くので必ずしもすべてが正しいとは限らないのでそこはご了承ください。


吉田松陰は弟子の金子重之助とペリーの黒船に向かって小舟を出すわけですが、この小舟ってたしか近くの漁師から盗んだものだったんですよね。

大儀のためには、こういった細かいことはどうでもいいみたいな感じですが、盗まれた方は商売道具がなくなって大迷惑です。

まあ、小舟自体は黒船に横付けして、吉田松陰たちが乗り込んだ後、流されてしまって最終的には見つかったようですが、この辺も大儀の前には大したことない話になってますよね。ま、いいんですが。

調べてみると、吉田松陰は、黒船の甲板の上に寝転がって

「アメリカに連れて行ってくれ」

というようなことを大声で怒鳴ったという話が出てきますね。

かなり破天荒です。

ペリーとしても幕府との交渉の中で余計な問題を起こしたくなかった、ということでこの申し出は却下となりました。

まあこれは確かに、勝手に吉田松陰らをアメリカに連れ帰って国際問題にでもなったら面倒だというのはわかりますよね。

で、吉田松陰はこのことで牢獄に送られることになりますが、吉田松陰も、そうなることはわかっていたが、どうにも止められなかった、というようなことを言っていますね。

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂

ウィキペディア 吉田松陰

それほど西洋文明に対しての憧れが強かったということなんですが、思いついたとしても、なかなかこういったことは出来ない、この行動力を見習うべし、というところでしょうか。

あるいは、そういう無謀な行動をしてしまうほど日本のことを想っていた、というような感じで語られるわけです。

ちなみに吉田松陰は、この前年に黒船が来航したときに宮部鼎蔵に宛てて書簡を送っています。

聞くところによれば、彼らは来年、国書の回答を受け取りにくるということです。そのときにこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります

ウィキペディア 吉田松陰

戦う気満々だったわけです。

※ペリーは前年に一度来航し条約締結を要求し「1年後に回答を聞きに来るわ」ということになっていたんですね。

しかし吉田松陰は、結局は外国留学を決意します。

やはり外国の知識や技術を学びたいという思いが大きくなった、あるいは日本には外国の知識や技術が必要だと確信したということのようですね。

1953年(ペリーの前年)、プチャーチン率いるロシアの艦隊が長崎に入港したとき、これを知った吉田松陰はこのロシアの艦隊に乗り込んで外国に行こうと長崎に向かいます。

これは、ロシア船がすでに出航していて間に合いませんでしたが、このときから吉田松陰は今度は外国に行く気満々になっていたわけです。

ヘタをしたらロシア艦隊に小舟を横付けしていたかもしれません。

翌年1854年、そういった流れで、吉田松陰は再び来航した黒船に小舟で乗り込んだわけです。

ペリーも、この吉田松陰の行動には驚いたようで、報告書にも日本人の死をも恐れぬ知識欲と行動力に驚嘆し賞賛した、とあるということです。

確かに、こういった好奇心に忠実な行動は、現実的にはいろいろな制約がかかる人生の中で賞賛されるべきところかもしれませんが、これについてもいろいろな見方ができるかもしれません。

しかし、いろんな資料によると、実は吉田松陰のようにペリーの黒船に対して小舟などでアプローチした日本人は結構いたようですね。

実際、日本中がパニックになっていたとしたら、なかなかこういった命がけの行動はできないのではとも思います。

いや、逆にできるのかな。

まあ、外交問題になってはということで、攻撃でもされない限りは、ペリー側もそういった人たちを殺すわけにもいかなかったでしょうしね。

意外と命がけという意識はなかったのかもしれませんね。

市民としても、お祭り的に集まって黒船を見物して楽しんでいたという話もありますし、見物客を見込んだ出店や屋台なども商売をしていたといいます。

とはいえ、松陰先生の破天荒エピソードなかなかですよね。


【初心者におすすめ】WordPressブログの始め方


※)この話には続きがあるのでまた次回。
いきなり吉田松陰って自由過ぎますか。先生といわれて多くの人に尊敬されている吉田松陰ですが、エピソードはかっ飛んでいます。あ、フォロー/スキしてくれた方ありがとうございます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?