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昭和40年代の東京下町歳時記 3月


3月3日はひな祭り。この日はちらし寿司とハマグリのおすまし。食べ物の記憶は鮮明なのに、うちのお雛様がどんなだったか、全然思い出せない。(-_-;)

うちの隣のSちゃんの家は釣り船屋。Sちゃんは私と妹と2歳違いで一人っ子だったので、私達三人はよく一緒に過ごしていた。時々おばさんが窓越しに「Sや、家がどこだか忘れたの?」と帰宅を促していた。(笑)

川に釣り船を停泊していて、Sちゃんのおじいちゃんとお父さんが釣り人達を乗せて季節の魚を釣りに行くのだが、春は潮干狩りに、今はディズニーランドになっている浦安近辺に出かけるので、定員に余裕があると「行くかい?」と誘われて良く出かけた。船は大好きだ。当時は小さな子供でも沢山貝が採れたので、母は「ハマグリだけ取ってきて」といつも言っていた。さすがにハマグリはなかなか無くて探すのは大変だったが、宝探しの気分で楽しかった。

釣り船には小さな調理場があり、おじさんがめごちや海老、かぼちゃ等の天ぷらを揚げて、アサリの味噌汁と白いご飯を船の上で食べた。船の真ん中に長いテーブルがあって、釣りをする時は机を背にして釣って、食べるときは向かい合って座る。潮風に吹かれて食べる揚げたての天ぷらはおいしかった。

季節によってカレイは槍のようなものでついたと思う。ハゼ釣りはどんどんかかって面白かった。当時の東京近海には色んな魚がいたものだ。うちにはよく隣から煮魚の鍋が回ってきていた。母は頂き物があると、おすそ分けをしていた。これも下町の習慣。

近所にはこの時期から朝「あーさりー、しじみっ」とおじさんが自転車で売りに来た。豆腐屋さんはラッパを鳴らす。高い音と低い音の二音を長めに交互に吹く。どちらもボールとお金を手に、私が走って追いかけて行かなくてはならない。

私が小学生の頃の家の朝食は、文化窯で米を炊き、私は鰹節の塊を削って母が出汁をとって味噌汁を作り、海苔をストーブで炙って器に入れ、合間に豆腐を買いに行ったり、母は干物などを焼いて、台所の床下からぬか漬けを出して、かき混ぜて他の野菜を入れたりと、非常に忙しかった。以前和食の板さんにその話をしたら、板前の見習いのやることを小学生でやっていたのですね、と感心された。台所は朝ご飯の湯気と匂いで一杯になり、いつしか私は白いご飯が食べたくなくなり、準備をしたら一人でコーンフレークスやパンを焼いて食べていた。

春になると土手でよもぎを取ってよもぎ団子を作る人を手伝ったり、つくしを積んではかまを取っておひたしにして食べたりした。菜の花があちこちに咲き始め、春の近さを知らせる。


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