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「解像度高い」が苦手 2

前回、「解像度高い」ということばが苦手だということを書いた。書いた後にちょっと思うことがあったので、改めて書こうと思う。


便利

前回は解像度が高いというのはことば遊び的な側面があって、よい比喩だから使われているのだみたいなことを書いたが、それ以前に、このことばは便利だから使われているのだ、という当たり前のことを見落としていた。新しい世界に触れるとき、始めはそこは靄がかかったように感じられる。様々なものに触れてゆくことで、あるとき気づいたらその靄が晴れていたり、あるいは一つのものとの出会いが急激に靄を晴らすことがある。そういう体験を経て、今まで不安とともに接していたその世界は、急にくっきりと、面白く美しく見えるようになるのだ。

そうした体験を、「解像度が上がる」と表現すると、確かにすごくしっくりくる。なんなら、他にそうした体験を表す言葉が思いつかないくらいぴったりである。

ここで考えておきたいのが、今までくっきり見えていた世界が急に靄がかってみえるようになってしまうこともあるし、靄がかかっていること自体がわからない、何が分からないのかすらわからないみたいな状況もありうるということだ。後者のような状況では、仮に解像度が上がるとしても、それは部分的なものに留まるだろう。つまり、「解像度」は単調増加するものではないし、全体が均等に上がってゆくようなものではないのだ(そもそもここで言う世界は感覚的なもので、常に変化してゆくから「解像度」もその影響を受ける)。

問題

「解像度」が便利だという観点から問題を考え直してみたい。解像度が高いというのは立体的なものごとを平面で捉えてしまう単純化ではないか、というのが最初の問題意識だったけれど、「立体→平面」というのが問題というよりは、なんでも「解像度」で捉えてしまうこと自体が問題であるような気がしてきた。

全体性と単調増加

先ほど、世界が再びわからなくなったり、部分的に分かるようになる(部分的にしかわからない)ことがあるということを述べた。「解像度」ということばは、こういう状況に対応していない気がする。「解像度が上がる」「解像度を上げる」ということばはよく聞くが、「解像度が下がる」ということばはあまり聞いたことがない。試しにググってみたところ、「解像度 上がる」の検索結果は131万件、「解像度 下がる」の結果は35万件だった。それぞれデジタル(つまり原義)の解像度の話も含んでいるので単純な比較はできないが、やはり明確に差があるような気がする。また、部分的にわかる・わからないという状況も「解像度」的な捉え方は表さない。

このサイトの図のように、(画像)解像度は全体に対し均一である。部分的に解像度が低い状況というのは原義あればいわゆるモザイク処理などが該当すると思うが、「解像度高い」というときにそういった状況は想定されていないように思う。

多様性

ものごとの捉え方は多様で複雑で、「解像度」のように世界全体に均質なものではない。「解像度」は上がるけれど、下がることはない。だからそうでない状況を表せない(現に表されておらず、またあまり向いていないと思う)というのがまず一つ。それから、「解像度」ということばは世界そのものを単純化してしまう、というのがもう一つの問題だ。「解像度」的な見方では、ある世界はそれぞれの個人に対し「解像度」の差において多様であるけれど、しかしそれ以外の尺度に対して閉じてしまうと思う。「解像度」という一つの尺度でしか世界を測れなくなってしまう。「解像度」が想定する世界は、最終的にはデジタルの写真や画像であって、「解像度」MAXであれば世界はだれが見ても同じようなものとして想定されているのではないか。

世界は誰が見ても同じだなんて、そんなことはないと思う。世界は人それぞれであって、それぞれの感じ方がある。その感じ方は「解像度」のみで測られるものではない。世界はそれぞれが感じて、それぞれが作り上げるものだ。もともとあるものだけれど、各人が世界に触れることで、様々につくりかえられてゆく。感じ方も触れ方も作り方も、もっと自由でいい。確かに世界を画像として描くことはできる。でも、十人十色の描き方があっていい。デジタルである必要はない。ペンタブで描いたって絵具で描いたって鉛筆で描いたっていい。そもそも絵である必要もない。ことばで描いてもいい。それぞれが自由に描く世界は、一つの物差しでなんか測り切れるわけがない。何個あっても多分測りきることはできない。一つの世界は、そこにそうあるだけでどんな尺度にも還元されないかけがえのない価値を持つのだから。

ことばを尽くすこと

高校の哲学の授業

最後に、個人的な「解像度」に関わる体験を書きたい。高校生のころ、哲学の授業があった。様々な古典を読んでゆき、それについて講義を受けたり、生徒たちで議論したりと色々やったのだが、アリストテレスの『政治学』を読んだときは、教員が出した複数の問いに答えてゆくという形だった。一人一人個別に取り組んで、教員が納得する回答を提示したらゴール、といういわば競争のような形式で行われた。ぼくはそのとき一番に「ゴール」した。実力試験などふだんの大学受験的な学力では周囲に遠く及んでいなかったので、これはかなりの優越感をもたらした。途中の時点でみんなよりかなり先に進んでいたので、一番に終えるためにあせって解いてしまったのは否めない。これは大きな成功体験になったし、教員が納得したという点で最低限(本当に最低限だが)の条件は満たした回答だったということなので、あせったことが100%悪いという訳ではないのだが、しかしもっとゆっくり確実に解いてゆくべきだったなと今となっては思う。というのも、その後「ゴール」したある同級生と回答を読み比べたのだが、圧倒的に彼のほうが回答の質が高かったのだ。彼は哲学の授業を受ける前から様々な哲学や思想の本を読んでいて、ぼくの同級生の中ではそういう方面に最も詳しく理解のある一人だった(人間としても素晴らしく、今でも尊敬している)。だからだろうか、質は比べものにならなかった。比べるのも申し訳ないレベルだった。

差を言葉にしてゆく

これは言ってしまえば、彼のほうが哲学や思想、アリストテレスのテクストに対する「解像度が高い」のである。だから、「うわ、解像度高い、すげー」で終わらせることもできてしまう。しかしそこでそういう風に「解像度」ということばを使ってしまうと、ではぼくと彼の回答はどのように違うのか考えてゆく、本来必要であったはずの思考を奪ってしまう。それは非常に危険なことではないか。

結論

もともと「解像度」を現に使われているような意味で使い始めたのはオタク界隈らしい。今ではかなり普及して様々な場所で使われているような気がするので、「解像度」ということばを使っているからといってオタクとしてキモがられるということはないだろう。しかし、あまりにも「解像度」的である思考は自分の世界を閉じ、他者やその世界に対する理解を狭め、また一つの価値尺度でしか測れない貧しい思考を誘発してしまう。つまりそういう点で周囲から理解されず、また周囲のことも理解できない「キモオタ」になってしまう。

まだあの日比べ合った回答のぼくの方に何が足りなかったのか、どうことばを変えてゆけば彼の回答に、よりよい回答に近づくのかぼくはわからない。彼の回答との差を言語化しきれていないと思うのだ。しかし何かを完璧に言語化するなんてのは不可能だ。だからこそ、既存のことばに頼らず、絶えず言葉を探し続けてゆく。ことばとの格闘は基本的には苦しい。しかしその果てに、より豊かな自分の世界があって、さらには他人の世界への理解を開く鍵があると思う。

「解像度」が苦手だからといって、「解像度」的思考がぼくにないわけではない。むしろかなりあると思う。それを意識して「解像度」を別のことばに置き換えてゆき、新たな世界を開いてゆきたいと思った。もちろん、「解像度」ということばも、それを使う様々な人も大切にしたうえで。


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