見出し画像

【短編小説】水の戯れ


妻が「素敵な曲を見つけた」と言って聴かせてくれた曲が、ラヴェルの『水の戯れ』だった。

水の戯れ 作/モーリス・ラヴェル 演奏/辻井伸行

その神秘的な音は、音楽というより映像を見ているようだった。『水の戯れ』というタイトルは本当にピッタリだ。
「ねえ、この曲を聴いてどんなイメージが湧く?」
妻がそんな風に言って、二人それぞれのイメージを話し合った。
これは、そのときの僕のイメージを基にしたお話です。

あなたはこの曲からどんな世界をイメージしますか?


窓際の机にいると、窓の外の庭木がよく見える。若い緑は、雨粒で微かに揺れている。
ペンは一向に進まない。思い切って書こうとしても、頭には何も浮かんで来ない。ペンは空を切るばかりだ。
窓辺の金魚鉢から、ちゃぽんと水音がした。リュウキンが豊かな尾を優雅に揺らしている。

ふう、とため息が出た。

綿埃のような曇り空を眺めながら、時間ばかりが過ぎていく。

いくらペンを持ち直しても、アイディアは出てこない。

凝り固まった首をゆっくり回す。視線も机から、壁、天井、照明、書棚へと移す。

すると視界がそのままぐるりと回転した。目眩のように景色が回り続ける。頭がふわふわして妙な感覚に囚われた。
しばらくしてようやく回転が収まってきた。



気づくと私は、ぼうっと立っていた。
足下を見ると、大きな透明の壺のようなものの上に立っているようだ。私が立っているのは上部の縁だった。足を踏み鳴らすと、高い硬質な音がする。壺はガラスでできているようだ。透明で、足下の縁の部分だけ青く塗られていた。

どうもこれには見覚えがある。
しばらく首をひねってから、ふと気がついた。
私が立っているのは、さっきまで眺めていた窓辺の金魚鉢だった。

金魚鉢が大きくなったのか、それとも私が小さくなったのか。

私は、金魚鉢の中を覗いてみた。水面は深い青だった。リュウキンの姿は見えない。
風が吹き、波が立っているのがわかる。まるで海かのようだ。そして耳を澄ますと、波音のほかにも音が聞こえてくる。
なんだろう、と首を伸ばしてさらに覗き込む。
すると私の体は吸い込まれ、真っ逆さまに落ちていった。

ざぶんと水に入る。水中からみると、金魚鉢の中はさらに広かった。水面の先にも、私が落ちてきたであろう頭上を見上げても、金魚鉢との境目が分からなかった。水は、まさに海のようにどこまでも広がっている。

気づくと、私の周りにタコクラゲが漂っている。

「どこから来たの?」「今日は天気がいいね」「不思議な格好をしているね」

クラゲたちは口々に話しかけてくる。

「ここはどこかな」

私は質問する。

「どこかな」「どこだろう」「どこかだよ」「どこでもないよ」「どこだっていいじゃない」

「いつからここにいるの」

「いつからかな」「いつからだろう」「いつかさ」「いつでもないよ」「いつだっていいじゃない」

そしてクラゲたちはふわふわと気ままに揺れながら、好き勝手なお喋りを始めた。
私はどう質問したらいいのか途方に暮れた。
突然クラゲたちが静かになった。
そして、

「波だ!」「わあ、波だ!」「波が来た!」「波だ波だ!」

と騒ぎ出した。
辺りを見回していると、背後から大きなうねりがやってきた。私の体はぐるぐると回り、さらに深い水の層に引き込まれた。

「波だ!」「波だよう」「波が来た!」「すごい波だ!」

クラゲたちは騒ぎ続けている。そして波に乗って上昇し、ふわふわとどこかに行ってしまった。
手放してしまった風船のように小さくなっていくクラゲたちを、私は目で追うほかなかった。

「あんた、見たかい。あの軽薄な連中を」

不意に低い声がして、私は振り向いた。いつの間にか辺りの様子は随分変わり、砂や岩、そして海の植物で鬱蒼としていた。水面の光もここまではあまり届かず、薄暗い。
声の主を探し見回していると、暗がりの岩がごそりと動いた。

「ああ、ここだ」

トゲトゲしたその岩は、大ぶりのサザエだった。

「時々ああして、波に乗ってやってくるのさ。乗ってくると言っても、ただ流されているだけだろうがね。ああして要領の得ないことばかり言っていて話にもならん。
あんた、災難だったね」

そう言って、大げさにため息を吐いた。
私は少し首をすくめた。

「ありがとうございます。それで、ここはどこなんでしょうか」

「ああ、ああ、よく聞いてくれた。わしはあんたの訊きたいことがよく分かってる。あのぷかぷかしているやつらとは違うんだ。よーく分かってる」

「はい、それで」

「ああ、そうだ、ここはな、水の底だ。深いところさ。とてもな」

「...ああ、ええと、具体的な場所で言うと?」

「んん?なんだ、そこからか。
いいか、まずこのわしらの周りにあるものを水という。水というのは、上の方と下の方がある。それで、一番下を、底と言うんだ。
どうだ、分かるか?」

「...なるほど。よく分かりました。
では、あなたはいつからここにいるんですか」

「ははあ、そうか、そう来たか」

そう言ってサザエはニンマリ笑う。

「いいか、答えはな。昔っから、だ」

「...ああ、昔からですか」

「おいおい、ただの昔じゃないぞ。うんと昔だ。あの軽薄な連中が来るよりももっと前から、ずうっとここにいるんだ」

「...ここで何をしてるんですか?」

「何を?そりゃお前、じぃっとしてるのさ」

「...じっと」

「ああ。じぃぃ...っとさ」

そうしてサザエは噛みしめるように頷いた。

「はあ...」

その時、岩場の先から不思議な音が微かに聞こえてきた。金魚鉢の縁で聞いたあの音だった。

「なんだろう。あっちには何かありますか」

私が指を差すと、サザエは片眉を上げた。

「さあなあ、たまにおかしな連中が通るくらいだ」

「そうですか。私、行ってみます。お話、ありがとう」

「ああ、また分からないことがあれば何でも訊きに来い」

泳ぐ私に、サザエは貝を揺すってさよならの合図をした。

「悪い人じゃなかったな」

ひとり言を呟きながら、水を掻いていく。
前方にはサンゴの丘が見えてきた。サンゴが伸ばす腕は、節くれだっている。その色は、水面からの光が揺れるたびに青は黄色に、黄色は紫に、紫は赤へと、鮮やかに移り変わっていく。
不思議な音は、その丘の向こうからのようだった。

丘を越えると、その先はなだらかな斜面になっていた。
サンゴはどこまでも続いているが、斜面の下の方に行くにつれてますます背が高くなり、腕も高く、太く伸ばしている。まるで森のようだった。
そのサンゴの森に近づくにつれ、音は大きくなっていく。

サンゴの森の太い幹の間をすり抜け、泳いでいく。幹は根本の方は黒くごつごつしていて、枝のほうにいくほど鮮やかな色になっている。枝の色は周囲の枝の色と共鳴し、色のグラデーションがさざ波打つようだった。
不思議な音は次第にはっきり聞こえるようになってきた。その音は高く、独特のリズムがあった。

やがて、一際大きなサンゴの大木の前に出た。サンゴの森は深く生い茂っていたが、その大木の周りだけは空き地のようにぽっかりと開けていた。
大木の枝先には、光る丸いものが果実のように下がっていた。
そして、それとは別に大木の幹の周りにも、いくつもの白い何かが円を描いて並んでいた。
それは、水の妖精だった。

彼らの手足は細長かった。手足の端は透けるようにぼやけており、薄くひらひらしている。
不思議な音は、彼らの歌だった。歌声は高く、流れるような調べだった。そしてそれに合わせて彼らが踊る光景は、風に翻る旗のようだった。

素早い踊りが歌を疾らせる。その歌に合わせてさらに手足が跳ねる。
音が音を呼び、踊りは新たな踊りへと伝播する。
私はすっかり目を奪われていた。

気づくと、いつの間にか辺りが明るくなってきていた。
見上げると、大木の枝先にあった丸いもののうちのいくつかが、さっきより強く輝いている。
やがて、そのうちの一つが弾けた。輝きが飛び散り、枝先を離れてゆっくり降りてくる。妖精の一人がそれを柔らかく受け止めた。その腕のなかで、次第にその丸い形が解けていった。
それは、妖精の赤ん坊だった。

頭上では、さらにいくつかの丸い輝きが弾ける。そして赤ん坊たちが抱きとめられた。彼らの誕生を祝うように、歌と踊りが続く。

その光景につられ、私は妖精の輪の近くに進み出ていた。そして、体がうずうずして、見様見真似で踊っていた。
すると、妖精の何人かが振り向いた。

「あの、おめでとう」

私は咄嗟に言った。

「とても美しく、素晴らしい光景でした。よければ、私も混ぜてもらえませんか」

妖精は顔を見合わてから、私を輪の中に招き入れてくれた。
私は妖精の真似をして踊ってみたが、捉えどころがなく難しい。苦戦していると、妖精は一緒に歌うように促してくれた。

真似をして声を出す。歌も独特で難しい。
しばらく真似をしているうちに、徐々にコツがわかってきた。すると、歌いながらだと不思議と踊りやすいことがわかってきた。
くるくると踊ると、今度は口から歌が自然にこぼれてくる。
不思議な体験だった。私は時を忘れて楽しんだ。

不意に、妖精たちの歌が止んだ。皆が周囲を見回している。
大樹の上を大きな影が横切った。
すると次の瞬間には、妖精たちは散り散りにサンゴの森の中へと泳いでいってしまった。

私は突然のことで呆気にとられていた。
再び頭上を影が横切る。見上げると、大きな魚がこちらに突進してきた。

私は慌てて逃げた。
振り返ると、魚は大きな赤い口を開けている。
力の限り手足で水を掻いた。
しかし、魚との距離はみるみるうちに縮まっていく。

「助けて!」

私がそう叫び終わる前に、魚は私を飲み込んだ。
体がぐるぐると回転する。真っ暗闇の中、私は必死にもがいた。
苦しい。
指の間から砂粒がこぼれるように、意識が遠のいていった。



かたん、というペンが床に落ちる音で目が覚めた。いつの間にか居眠りをしていたらしい。
ペンを拾い、あくびをする。
不思議な夢をみた。どんな内容だっただろうか、と首をひねる。
長い夢だった。しかし、どうにも思い出せない。

窓の外に目をやる。
相変わらずの薄曇りと雨模様だ。
そのとき、何かの音が聞こえた気がした。
なんだろう、と立ち上がる。そして、窓に打ちつける雨の音だとわかった。
しかしそれは、これまで聴き慣れた雨の音ではなかった。
高い、澄んだ音だ。
雨粒が落ちるたびに、あちこちで音が飛び交う。
庭の若葉は雨粒の音を楽しむように揺れている。
雨粒の音ひとつひとつが繋がって一つの調べとなり、さらに重なっている。雨の連弾が部屋全体に響いていた。

不思議な光景だった。私は魅入られ、立ち尽くしていた。

そうだ。私は、このような幻想的な体験を夢の中でもしていた。
記憶はおぼろげだが、耳にした音楽は徐々に蘇ってくる。

私は急いでペンをノートに走らせた。
楽譜に書き留めるうちに、音楽の断片が次々と蘇る。
輝くものを見ながら、私はこの調べを聞いた。全身で感じ、歌ったのだ。

みるみるうちに楽譜は埋まっていった。爽快な気分だった。さっきまで全く曲が書けずに悩んでいたのが嘘のようだった。

一通り書いて目をあげると、金魚鉢が目に入った。その中でリュウキンが泳いでいる。私が眺めていると、リュウキンはこちらを向いて、その赤い口を大きくパクパクさせた。
ぎくりとした。理由は分からないが、背筋に悪寒が走った。

私は気を取り直してノートの楽譜に向かった。
そういえば、まだこの曲のタイトルを決めていなかった。

私からのしばらく思案する。そして、『水の戯れ』と書いた。
直感的なタイトルだった。
しかし、これ以上ないものだという確信があった。

不思議な夢をみた。
その全ては思い出せないが、その特別な体験をこの楽譜を通して後世に語り告げたら、と私は願う。

終わり



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?