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【短編小説】日時計の家

孝介は、蝉のやかましい鳴き声で目を覚ました。
寝汗で寝巻きが体にまとわりつく。欠伸がこみあげてくる。

眠い。再び横になる。
しかし、蝉の鳴き声がうるさく、寝つけそうもない。
伸びをして、階段を降りていく。

居間の襖を開けると、その奥にある台所から物音がするのに気づいた。不思議に思っていると、居間と台所を仕切る襖がすらっと開いた。

そこには女が立っていた。割烹着姿だ。

誰だ。
盆を持っている。そしてちゃぶ台に、ご飯茶碗、味噌汁の椀、漬け物を置いていく。

俺が呆気にとられていると、女は

「おはようございます。朝ごはん、召し上がってください」
と言った。

俺は「ああ」だか「うん」だかと返事をして座り、箸を取った。

飯を食べる。
漬物をつまむ。

「それで、あなたは誰ですか」

と訊いた。女は、

「志乃と申します。孝介さんの身の回りの世話をすることになりました」

と言って、頭を下げた。

「ああ、そうですか」

新しい女中か、と得心した。
俺より少し歳下だろうか。肌が白く、長いまつ毛が際立っている。

「志乃さんの分はいいんですか」

「先程済ませましたので」

そのとき、赤ん坊の泣き声が聞こえた。

近所だろうか、やけに近い。
俺が見回すと、

「私の子です」

と言って志乃は居間から出て行った。

やがて、隣の座敷から志乃が赤ん坊をあやす声が聞こえてくる。

子連れの女中とは、珍しいものだな。
そう思いながら、味噌汁に口をつける。

それから俺は、朝ごはんがやけに美味いことに今さら気がついた。





志乃は、家の中をくるくると掃除して回った。そのうち泣き出した赤ん坊を背負いながら、器用に掃除を続ける。

それから表に出て、洗濯に取りかかった。
タライの前に屈み、ごしごしとやっている。しかし、その細い体で背中の赤ん坊を背負ったままでは、どうも難儀なように見える。
俺は表に出ていき、

「よし、俺が面倒をみよう」

と声をかけた。
志乃は「いえ、でも」と振り返った。 

「これでは足腰が辛いだろう。ほら」

そう言って俺は赤ん坊を持ち上げる。
志乃はまだもごもご言っていたが、やがて観念し、赤ん坊を背中に括りつけていた紐を解いた。

赤ん坊を高々と抱え上げると、きゃっきゃと笑い声を上げた。あんまり嬉しそうにするものだから、三度、四度と抱え上げる。赤ん坊は、思いのほかずっしりと重かった。

赤ん坊を抱き抱えて家に入る。後ろから、「ありがとうございます」と志乃の声が追いかけてきた。





昼ごはんに、志乃は玉子焼きを焼いた。しっかり火が通り、固めで、俺の好きな焼き加減だ。そのうえ塩は控えめで、それがまた良い。

「美味い」

と言葉がこぼれた。

志乃を見やると、赤ん坊に粥を食べさせていた。

「もう、物を食べられるのか」

「はい、重湯から徐々に慣れさせているところです」

赤ん坊は匙の重湯をゆっくり飲み下している。まだ幼いのに、存外に器用なものだ。
その口の中に、小さな白い物が見えた。

「歯が生えてきているな」

「あら。本当ですね」

と、志乃も赤ん坊の口を覗き込む。
俺と目が合うと、志乃は微笑んだ。

赤ん坊は粥を食べ終え、しばらくすると微睡み始めた。その姿を手枕をして眺める。
いつの間にか、俺も眠りに落ちていた。


目覚めると、すっかり夕方になっていた。
赤ん坊はでんでん太鼓で遊んでいた。志乃はその隣で繕い物をしている。

「すっかり寝てしまったな」

起き上がる俺に、志乃はゆっくり頷いた。

「孝介さん、私、夕飯の買出しに行ってこようと思います」

「そうか。じゃあ、散歩がてら俺も行こう。坊やも連れて」

志乃は俺を見て、「はい」と再び頷いた。





太陽は、山の向こうから西日を投げかけてくる。田んぼの水面にちらちらと反射し、眩しい。

買い物からの帰り道、志乃は赤ん坊を背負い、俺は買い物の荷物を持っていた。
赤ん坊は先ほどまで笑い声をあげていたが、すっかり静かになった。見ると、疲れたのかうとうととしている。
俺と志乃の足音が響く。

「志乃さんのご主人は、何をしておられる?」

志乃は、はたと立ち止まり振り返った。

「いや、このような妻子を持つ果報者は、どのような方なのかと思って」

志乃は再び歩き出す。
孝介も続いて歩き出す。

「夫は昨年事故に遭って、それきりです」

遠くでカラスの声が響いた。

「そうだったか」

太陽は稜線の向こうに沈み、空が紅に染まる。畦道には二人分の影が、長く長く伸びていく。
前を歩く志乃が子守唄を歌うのが、微かに聞こえてきた。





夕飯の片付けを済ませると、坊やのお気に入りのでんでん太鼓の音が聞こえてきました。

とん、とて、てん、てん。

孝介さんが遊んでくれています。坊やの笑い声も聞こえてきます。

「孝介さん、ありがとうございます。今日はこれで失礼します」

私が坊やをおんぶしていると、孝介さんは玄関まで見送りに出てきて、

「ありがとう。また明日」

と言いました。

私は家に帰り、床に就いて、坊やに子守唄を歌います。
そうして寝かしつけながら、孝介さんが食事を「美味い」と言ったことを思い出しました。坊やと楽しそうに遊ぶ表情も蘇ってきます。
そして、「ありがとう。また明日」という言葉を噛み締めます。
何度も何度も、反芻するのです。



翌朝、孝介さんのお宅で朝食の準備をしていると、孝介さんが起きてきます。そして遠慮がちに、

「あなたは誰か」

と訊くのです。
私は

「志乃と申します」

と名乗り、掃除だ片付けだと言ってその場を離れます。

孝介さんは私を気遣い、重いものを持ったり、坊やの面倒をみてくれます。
坊やは孝介さんに懐いており、孝介さんも楽しそうです。

そうしてまた、一日が過ぎていきます。

「今日は少し冷えますから、お風呂を沸かしておきました」

「そうか、ありがとう」

「耳の後ろ、大きな傷跡があるようですから、石鹸が染みないよう気をつけて下さいね」

「うん?そんな傷があったかな」

孝介さんは自分の耳の後ろを撫で回しています。
私が帰り支度をしていると、孝介さんは

「そういえば」

と言いました。

「坊やの名前を訊いていなかったですね」

「孝一と申します」

「奇遇だな。俺と同じ字ですね」

「はい」

孝介さんは玄関まで見送ってくれます。

「また明日」

私は手を振り返します。

「いつか、思い出して下さいね」

事故での怪我以来、孝介さんは物を憶えられなくなりました。
私と孝一のことも、分かりません。

その日一日をかけて憶えたこと、過ごした時間も、夜のうちには溶けてしまいます。そして次の日、日が昇るころに、また一からの出直しです。

そうやって、昼間だけ時を刻み、夜になるとすっかり消え去ってしまう、日時計のような毎日を繰り返すのです。

毎朝、私は孝介さんの目を見ることが出来ません。その知らぬ者を見る目が辛いのです。耐え難いのです。

名を訊かれると、その場にいることもできなくなります。このまま遠くに逃げてしまいたいと考えてしまいます。
いっそのこと、この胸の痛みが心臓を押し潰してくれればいい、とさえ。

それでも、孝介さんと過ごす時間はかけがえがありません。孝一と遊んでいる姿を見ると、よい心持ちになります。何より大切な時間です。

そして、「また明日」という言葉を心待ちにしているのです。
孝介さんが、私たちとの明日を望んでくれていると思えるのですから。

どれだけ時を刻んでも、宵ともなれば全て、まるでなかったことのように消えてしまいます。

それでも手放し難いのです。
それでも。





孝介は寒さで目を覚ます。
外では雪が降っているようだ。

身震いしながら階段を降りていく。

廊下で何かが足に当たった。
床に転がっていた物を蹴ったようだ。

見ると、それはでんでん太鼓だった。
拾い上げると、小さく、てん、と音を立てた。

こんな物、うちにあっただろうか。

首を捻りながら居間に入る。
すると、そこには女がいた。

ちゃぶ台を拭いている。
誰かと思い、足を止めた。

女は俺に気づいているようだが、顔を上げずに朝ごはんの皿を並べ始める。

女がおんぶしている赤ん坊が甲高い声をあげた。

俺の方に手を伸ばしている。
俺の持っているでんでん太鼓を欲しがっているようだ。

その様子に気づいて、女も顔をあげた。俺と目が合う。女はすぐに下を向いた。

赤ん坊が俺を見ながら、また一声あげる。

俺は訳も分からないまま、赤ん坊にでんでん太鼓を差し出し、鳴らしてみせた。

とん、とて、てん、てん。

赤ん坊は嬉しそうに笑った。
その丸い顔は、笑顔でさらに丸くなった。
気づくと俺も笑っていた。

再び女と目が合った。

その段になって、俺はようやく口を開いた。

「あの、以前どこかで」


おわり

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