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【短編小説】運び屋

人生は、直感だ。
だいたい俺は物事を深く考えることが好きじゃないし、似合ってもいない。
無駄な頭は使わない。勝負するときはバシッと腹を括る。
大学受験は失敗したが運転免許は一発で取れた。
パチンコで負けが込んだ帰り道、通りがかりの店の福引で温泉旅行を当てた。
負けが込んでも、いつかは勝ちが来る。
世の中はうまいことできている。
人生は、直感だ。


✳︎


その日は仕事が休みだった。
相変わらず予定はない。なんとなく過ごすだけの休日だ。今日は金がないからいつものようにパチンコに行くことはできない。

電車に乗ったのは気まぐれだ。一日部屋にいるのは気が滅入る。
行き先はバイト先とは反対方向にした。休日にまでバイト先の近くをうろつきたくはない。

普段降りる駅の先というのは、案外知らないものだ。
車窓の風景が途端に新鮮に映る。
河川敷で草野球をやっているのが見える。
ボートが川を下っていく。
住宅街の外れの林の間に、歴史のありそうな神社か寺かが一瞬覗いた。

なんとなく散歩がしたくなり電車を降りた。
「ようこそ屋敷町商店街へ」と書かれた年季の入ったアーチをくぐる。まばらではあるが、人通りはある。
威勢よく声を出している魚屋の親父。それとは対照的に、椅子に座ってじっと動かない八百屋の老婆。気怠そうに店のシャッターを開けている飲み屋の店主。見知らぬ商店街もなかなか面白い。


✴︎


その男に出会ったのは、商店街の終わりに差し掛かったところだった。男の犬が俺の脚にじゃれついてきて、

「こらこら」

と男は犬の首輪に括り付けたリードを引っ張った。
男は60代ぐらいだろうか。真っ白な白髪が印象的だ。背は低く痩せ型で、リードを引く細い腕は頼りない。一方犬は若々しい中型犬で、力が有り余っているようだ。その見かけどおり、男が引っ張っても犬はびくともせず、俺の足元から離れる気配がない。

「こら、ご迷惑だろう」

となおもリードを引く男に、俺は「大丈夫」と言い、犬の頭を撫でた。

「おい、どうした。ご機嫌じゃないか」

犬は目を細めるようにしてぺろりと舌を出した。

「すみません。いつもは他人にこんな風には懐かないのですが」

「そうなんですか。なんだか嬉しいなあ」

「この辺りにお住まいなんですか?」

「いえ、鶴見です。今日は休みで」

俺は犬の顎を撫でながら答える。

「そうですか…。いやしかし、マルクがこんなに人に懐くなんて、本当に珍しい。
犬、お好きなんですか?」

「ええ、昔、実家で飼ってたもんで」

「そうですか...」

男は俺の顔と犬を見比べるように視線を動かした。それから考えこむように俯いた後、不意に顔をあげた。

「あの、初対面の方にこのようなことをお願いするのは恐縮なんですが」

「は?」

「実はこの犬は、私の犬ではないのです。人に言われて預かっているのですが、なかなか言うことを聞いてくれなくて困っていたんです。
しかし、どうやらあなたには懐くようだ。どうでしょう、私に替わって面倒を看てはいただけないでしょうか」

「そんな急に…」

「もちろんタダとは言いません。この犬を預かるときに、世話代も受け取っているんです。これもあなたに全て差し上げます」

そう言って男はジャケットの内ポケットから封筒を出し、俺の手に握らせてきた。
一体何だというのだ。慌てて封筒を返そうとしたが、渡された封筒の厚い感触が俺の手を止めた。
思わず封筒に目をやる。封筒の口から紙幣が覗いている。
この厚みは20、いや30...。

「50万円あります」

男の声で我に返り、封筒から視線を引き剥がす。自分がさもしく思え、頬が紅潮するのがわかる。
取り繕うように曖昧に笑顔を作るが、男はそれを気にする様子もなく続けた。

「ただ、仕事はこれだけではありません。後日、某国までこの犬マルクを連れて行って頂きたいのです。そこで追加の200万円の報酬が受け取れます」

「いや、...え?どういうこと?」

「もちろん、飛行機代も支給されます。
...引き受けたはいいが、私のような年寄りにはなかなか難儀な仕事です。もしあなたが引き受けてくれたなら、とてもありがたい。
おっと、私ばかり喋りすぎましたね。あなたも考える時間が欲しいでしょう。どうでしょう、三日後の日曜日のこの時間、この場所でお返事をいただけないでしょうか」

なんなんだ、このじじいは。
俺は話の急展開に圧倒されていた。
ようやく絞り出した言葉は、

「はあ...」

というなんとも間抜けなものだった。


✳︎


その日、俺は珍しく早起きをした。
タンスから引っ張り出したニット帽をかぶり、サングラスをかけて電車に乗った。

屋敷町商店街のアーチをくぐったのは、あの白髪の男との待ち合わせ時間の2時間前だった。
尾行されていないか時おり後ろを振り返りながら、足早に歩く。
そして小さなビルの2階にある喫茶店に入り、窓際の席に座った。
商店街の通り全体を見渡せ、人通りを観察するには絶好の場所だ。もしあの白髪の男が俺を嵌めようとしているとすれば、どこかで仲間が見張っているはずだ。路地裏から見張っているのか。買い物客に扮しているのか。いずれにしても見逃すわけにはいかない。俺はどこかに怪しい人物がいないか、注意深く観察した。

商店街の人通りは相変わらずまばらだった。
年配の通行客が多い。学生もちらほら通る。
商店の女性店員たちが店前で雑談し、大きな口を開けて笑いあっている。今のところ、怪しい人物は見当たらない。

時計の針は進む。30分、そして1時間が経過した。しかし商店街は依然閑散としたままだ。怪しい人物どころか、買い物客すらろくに通らない。女性店員たちは相変わらず雑談に花を咲かせている。
まるで喋ることが仕事みたいだ。
ほら、久しぶりに客が入ってきた。気付け、後ろだ。出て行ってしまうぞ。
くそ、そんなことはどうでもいい!俺はそれどころじゃないんだ!

俺は思わず机を叩いた。

「お客さん、ずーっと外見て何してんの?」

喫茶店の中年の女性店員が声をかけてきた。
しまった。

「え...いやあ、何も」

ははは、と曖昧に笑って誤魔化した。
女性店員は訝しむような顔をしたが、そのまま奥に引っ込んでいった。
店内を見渡してみれば、俺以外の客はほとんどいない。一時間も外ばかり眺めている客がいれば不審に思うか...。
恥ずかしさが込み上げてきて、居住まいを正した。
それでも警戒を怠るわけにはいかない。

俺は結局その席で居心地の悪さを感じながら、あの白髪の男との待ち合わせ時間まで閑古鳥の鳴く商店街の通りを観察し続けた。


✴︎


白髪の男がマルクを連れて待ち合わせ場所にやってきた。約束の時間まであと10分ある。
俺は喫茶店の窓から白髪の男の様子や、周囲に怪しい人物がいないかを入念に観察した。
しかしいくら目を凝らしても、不審な人物は露と見当たらない。白髪の男にも不自然な動きはない。
待ち合わせ時間を少しすぎたころ、俺は諦めて喫茶店を出ることにした。

「お兄さん、熱心に外ばっかり見てたね」

会計の時、女性店員が話しかけてきた。

「もしかして探偵さん?」

「いや、そんなんじゃないっす」

顔が熱くなった。
俺はそそくさと喫茶店を出ると、白髪の男の待つ待ち合わせ場所に向かった。

「ああ、来てくれたんですね、よかった」

と白髪の男は俺に笑いかけた。

「どうしました?顔が赤いようですが」

「いや...なんでも」

「そうですか。
さっそくですが、先日の件考えてくれましたか」

「ええ...。引き受けますよ」

「そうですか、それはよかった」白髪の男は安堵したように言った。

「ただ、最初に教えてほしい。本当の仕事は何なんですか。
ずっと考えてました。でも分からなかった。答えを教えてください。見当はついています、運び屋をやらせるつもりでしょう?麻薬か、武器か、金塊か。それともこの犬自体が海外への持ち出し禁止の珍しい犬種だとか」

白髪の男は驚いた顔をし、そして笑った。

「確かに、あなたの立場で考えれば不安になるのも無理はない。
まず、その犬は世界中のどこにでもいる犬種で、珍しくはありません。当然海外へ連れて行くことも合法です。それに麻薬や武器、金塊を運んでもらうつもりもありません。あなたには、ただその犬を連れて、目的地まで行って欲しい。それだけです」

「...本当に?」

「ええ、本当です。それでは不満ですか?」

「いや...。どんな事情があっても、引き受けるつもりではあったんですけどね」

「ほう」と白髪の男は俺の目を見つめた。

「俺、直感を信じる質でね。不思議な頼まれ事だけど、引き受けることが俺の大きな転機になる気がしたんです。ついに大きな勝ちが回って来た、って。ただ、内容は先に把握しておかないと覚悟も決まらなくって」

俺が笑うと白髪の男も「そうですか」と笑い、「いずれにしても、話がまとまってよかった」と言った。
そして俺は白髪の男からマルクと世話代50万円、そして三日後の某国までの航空券を受け取った。


✴︎


白髪の男に言ったように、話を引き受ける覚悟はできていた。
ただし、厄介なトラブルに巻き込まれる可能性がゼロになったわけではない。
俺は周囲への警戒は怠らなかった。

そして某国行きの飛行機に乗る日がやってきた。
タクシーで空港に向かい、搭乗手続きを行う。特に空港はたくさんの人が行き交うため、周囲への警戒は苦労した。
出国審査を通り、飛行機に乗り込む。
そして長いフライトを経て某国に到着した。入国審査も問題なく通過する。マルクも元気だ。
心配をよそに、俺は尾行や監視されてる気配もなく無事に目的地まで到着してしまった。拍子抜けするほど順調な旅程だった。

事前に白髪の男から聞いていたとおり、出国ロビーには大きな車が迎えに来ていた。車のシートは革張りで、高級そうで緊張したが座り心地はとてもよかった。

車はやがて郊外の屋敷に着いた。マルクを連れて、案内されるままに屋敷に入った。
屋敷のロビーは広々としており、大理石の床がピカピカ光っていた。

「やあ、来ましたね」

ロビーの奥から男のしわがれた声がする。マルクは一声鳴いて声の主の元へ走って行った。
その男は車椅子に座っており、日本人のようだった。マルクが男にじゃれつくと、男は笑ってマルクの頭や背中を撫でた。顔には深いシワがあり、かなり高齢であることがわかった。髪を綺麗に撫でつけ、品の良い服装をしている。

「失礼、挨拶が遅れました。なにぶんマルクとは久しぶりの再会だったもので。私はこの家の主人です。そして、あなたへマルクを連れてくる仕事をお願いした張本人です。
長旅ご苦労様でした。さあ、こちらに来て休んでください」

そう言って主人は俺を奥の部屋へと案内した。
奥の部屋には大きなテーブルと椅子があった。俺が椅子に掛けると、主人は酒を出してくれた。

「疲れたでしょう。ゆっくり寛いでください」

「ありがとうございます」

一口含むと、酒は喉の奥へスルリと流れていった。美味い。銘柄は分からないが、上等な酒だった。俺はすっかり気に入った。

「道中、マルクは大人しくしていましたか?」

「ええ。マルクは賢い犬ですね」

「それはよかった。
いやいや、私も歳をとりましてね。体も衰え、残された時間はそう長くないことがなんとなく分かるんです。そうしたら、マルクに会いたくなりましてね。
私のわがままのために、あなたに苦労をかけてしまいました。これであなたの仕事は終わりです。本当にありがとう」

「お役に立ててよかった。俺も、こんな機会がなければこんな立派な屋敷に入ることは一生なかっただろうから、ラッキーでしたよ。俺もいつかはこんなところに住んでみたいなあ」

そう言って主人と笑いあった。
主人は、「しばらく日本に行ってないから、様子を教えて下さい」と言った。

「様子といっても、俺は新聞も読まないから、話せることなんて身の回りのことしかないですよ」

「新聞に書いてあることなんて、新聞を読めば分かることです。私が聞きたいのは、あなたの身の回りにあるような日常の話ですよ」

そういうことなら、と俺は話し始めた。
生い立ちや生まれ育った街のこと、バイトやパチンコ通いといった日々のこと。
ドラマチックな話はなかったが、主人は興味深そうに聞いていた。
そして「若い頃は、そういった何気ない日常さえ価値があるんです。本当に羨ましいことだ」と言った。俺もつい、いい気になってたくさんのことを話した。

こんなに誰かとたくさん話したのはいつ以来だろうか。

ひと通り話終えた頃に、急にまぶたが重くなってきた。
旅の疲れや緊張が解けたせいだろうか。酒が効いたのかもしれない。

「だいぶお疲れのようだ。そのままソファで横になって構いませんよ。毛布をかけてあげますから」

「...すみません、ではお言葉に甘えて」

そのまま俺は、眠りに落ちた。


✴︎


目が覚めると、ぼんやりした意識の中、床に毛布が落ちているのが見えた。
汚してはいけないと思い、拾おうと手を伸ばす。しかし届かない。体を起こし態勢を変えようとするが、体にうまく力が入らない。

「おや、お目覚めですね。毛布ですか」

という声とともに主人が毛布を拾い、俺に渡してくれた。

「ありがとうございます」

声がかすれてうまく出ない。
酒を飲みすぎたか。自分の喉に手をやる。
おかしい。声がうまく出ないのはそうだが、喉に触った感触までが妙だ。喉回りの皮膚や肉が妙に柔らかい。

「大丈夫ですか」

主人が言う。
返事をしようと思って主人の方に顔を上げようとし、気づいた。
車椅子だった主人が、自分の足で立っている。
足が悪かったんじゃないのか?
視線を上げる。
主人の着ている服が替わっている。
それに声や、顔までもが。
それはまるで、その姿は、

「驚いたようですね」

俺じゃないか。

「もう少し眠っていてもらうつもりだったんですが」

マルクが尻尾を振って、俺の膝の上に飛びついてくる。
マルクを受け止めようと手を前に出して、気づいた。
俺は車椅子に座っている。そしてこのシワだらけの手は。
俺は驚いて自分の手を触り確かめた。

「理解したようですね」

主人の声に俺は顔を上げる。
主人は笑っていた。
だがその笑いは、俺を屋敷へ迎え入れ、会話に花を咲かせたときの、あの品のある微笑みではなかった。
釣り上がった口角と、見開かれた目。その笑いからは底知れない狂気が感じられた。

「独自のルートで、ある機器を手に入れてましてね。肉体から精神を切り離し、他者と肉体を交換できるという物なんですよ」

「そんな...!」

俺は両手で自分の顔に触れた。

「ああ...ああ...」

深いシワと皮膚のたるみの感触ばかりが手を覆う。

「ただ、この技術にも限界はあってね。精神と肉体の相性が合わないと、交換がうまくできないんです。だから肉体の提供者選びは慎重に行わなければならない。その点で手助けをしてくれたのがマルクです」

主人は歩み寄ってきて、マルクの頭を撫でた。

「マルクは犬の中でもとりわけ嗅覚が鋭くてね。訓練することで、私と可能な限り身体的特性が似ている人間を嗅ぎ分けられるようになったんです。そして見事、成功した!
あなた、言いましたよね、マルクは賢い犬だと。それには私も同感ですよ」

「そんな、こんなことが...」

「信じられない?まあ気持ちは分かります。でも大丈夫。きっとじきに慣れますよ。
そうだ、約束の報酬200万円はそこに置いておきました」

そう言って主人はテーブルを指差した。

「しかし、その報酬だけでは不公平だ。私はあなたからこの若い体ももらった。
だから、その対価として私はこの屋敷をあなたに差し上げます。
私は望んでいた若さを手に入れ、あなたは屋敷を手に入れる。
いつかはこんなところに住んでみたいと言っていたあなたへ、私からのプレゼントです」

そして主人は踵を返し、部屋の出口へと歩いていった。

「では、私はこれで失礼します。私は日本へ向かい、あなたとして生きていく。あなたの生活ぶりも先ほどよく聞いたから、溶け込むには苦労しないでしょう。
それではごきげんよう」

そう言って主人は最後に俺に笑いかけた。だが、俺は顔をあげなかった。その顔を直視することなど、恐ろしくてできなかった。


✳︎


俺はぎこちない手つきで車椅子を動かし、テーブルの上の200万円を手に取った。今まで見たこともない大金だ。
屋敷を見回す。広々とした部屋がいくつもあり、それぞれに豪華な調度品が備えられている。夢のような大豪邸だ。

あの日、俺は直感を信じて依頼を受けた。
人生の転機を掴みとろうとしたのだ。そのおかげで、俺は一生働いても手に入らないような資産を手に入れた。
その一方で、失ったものは。

俺はゲラゲラ笑った。可笑しくてたまらない。笑いすぎて、涙が出るほどだ。
屋敷には、俺のしわがれた笑い声ばかりが響いた。

まったく、世の中はうまいことできている。


終わり

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