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自分の日常に戻る言葉

働き始めて間もないころ、10年ぶりにバレエを習い直そうと毎週のように大人のオープンクラスに出ていたことがあった。
(ここ最近は引っ越しを繰り返すうえに、平日も土日も暇さえあればビールや缶のチューハイを飲んでしまうので、近所のスタジオの道場破りもやめてしまった。)
こんなことは口が裂けても言ってはいけないけど、私が受けるようなアマチュア初心者の"いわゆる大人バレエのクラス"というのは側から見ればときに滑稽である。
小さくジャンプしたらそのまま天に昇っていってしまいそうな妖精や、手足の長〜い王子とプリマのパドドゥ、そういうバレエ的な光景が雑居ビルの片隅のフロアに繰り広げられることは極めて稀と言って良いだろう。
大人のバレエは難しい。
子供の頃は先生のお手本の通りにやっていれば身体の使い方もすぐに覚えてしまうし、決まった型を一つなぎにした、短いステップやターン、ジャンプの組み合わせを再現することができた。
大人になってから同じことをするにはまずオフィスワークや家事で凝り固まった筋肉をほぐして呼び覚まし、手と足と顔とおへその向きを一つ一つ、確認しながら足を出すのか上げるのか、曲げるのか、伸ばすのか、回るのか飛ぶのかあるいはその両方なのか?を考えなければならず、そうこうするうち呼吸をすることを忘れてしまう。それでレオタードからはみ出たお肉をTシャツで隠した色んな年代の女性たちが、薄化粧の真顔でめいめいよくわからない動きをしている図が出来上がる。
それでも私はレッスンに通っていた。立ち仕事で疲れてても嫌なことがあっても行っていたと思う。
ある日、ベテラン講師のA先生がバーレッスンの途中で全員に結構きついチャレンジをさせたことがあった。
Y字バランスと言ってピンとくる人も多いと思うが片足で立って動足を付け根から耳の方に高く上げてキープするポーズで、通常のクラスでは手で踵を持ち上げて2秒でも手を離せばよいのだが、
その日は足を上げたら音楽も無視してもうダメというところまでキープする我慢大会のような格好になった。
たとえ股関節の柔らかさに恵まれたとしても、上半身の引き上げ、軸足の踏みしめ、脇の強さなど身体の軸を構成する全てがしっかりしていないと、身体中が痙攣のように小刻みに震えてしまうのを禁じ得ない。
その時A先生が言い放ったのが「できることしっかりやっていきましょう。」とのひと言だった。
この言葉はその時はまあそうだよな、という感じでそこまで刺さらなかったのだが、そこから何年にもわたり、ある種のたちの良い呪いのようにたびたび想起されることになる。

この場面で言う「できることをしっかり」やっていくと言うのは何が大変かと言うと、前述のとおり大人バレエに取り組む人たちにとってできることというのは非常に少なく、小さなことでもあり、それをコツコツと積み上げた先にあるものは往々にして、大きな達成感や地位や名声に繋がるものではないということである。
そういう無数の小さな諦念を内包しているところにこの言葉の普遍性があると思えてならず、
東京に来て5年が経ち、バレエにも行かなくなった今も座右の銘であり、何者にもなれない自分を鼓舞する矜持のようにもなっている。
今年8月 お盆休みの真ん中に、一緒に暮らす恋人が自宅で急死した後、これからどうしようかな、と思った時もまた、この言葉が浮かんできた。
「こんなことになって大変だね。地元に帰るの?」と言われると、確かにこの機に一度何もかもやめてしまって500㎞西に戻るのも良いかもしれないと思った。
そこまでしなくても、下期の目標を大幅に下方修正して、仕事は休み休みやろうかなとか。
でもこの言葉を思い出すと、
今の私にできることをやるのが一番心休まることなのではないかという気がしてきた。
9/1は防災の日ということでテレビでも色んな特集が組まれていたが、昨今は心のケアも防災という考え方がでてきて災害時に備えて、日頃から食べ慣れたカレーなんかを備蓄しておくといいと言われるようになった。
そういうことも考えるとやはり、ものすごいショッキングなことが起きたときにはいつもやっているようなことをいつもやっているようにやるのが一番良いのではないかと思われたのだ。
そしてそれは、早くもとの日常に戻るためにではなく、今の自分の心を落ち着けるためにやるということが重要なんだなと自己完結している。
情報革新も医療技術もウイルスも、昨日までなかったものが急に出てきて我が物顔で振る舞い出す現代社会を生きていく上で、何があってもしばらくしたら日常に、普段の自分に戻っていくしぶとさは役に立つのかもしれない。
ここまで書くと大人バレエのTシャツの下に隠された贅肉が、処世術の象徴のようにも見えてくる。
正常性バイアスと言われるかもしれないが、私は今日もできることをしっかりやっているつもりである。





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