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そのあいだ(未完)

確定申告にミスがあり、久々に私用のパソコンを開いたところ、懐かしいタイトルのWordファイルを発掘した。休職し鬱々としていた時、日記がわりに書きつけていた文章だった。(文豪よろしく、それは原稿用紙レイアウトだったし、タイトルも夏目漱石にかぶれすぎである)

この文書は、未完だった。途中まですごいエネルギーで綴っていたものの、途中で飽きたのだろう。そして、けろっと元気になったのだろう。

全てを晒すにはあまりに個人的であまりに生々しいが、改めて読んでみると、思っていたよりも出来が良い気がしてくる。

今、私は社会人としてまた新たなスタートを切ろうとしている(小さくさりげない、吹けば飛ぶようなスタートである)。

これを機に、鬱屈していた頃徒然なるままに書き溜めたこの日記のほんのごくごく一部を、ここに供養したいと思う。とんだ自己満足である。なむなむ。




 いつの間にか、会社に行けなくなってしまった。七月の終わりごろから明らかに体調を崩してしまい、十月の中旬から、ついに私は休職した。あっという間のことだった。

 完璧主義だった私には、長期間休むということは、あまりに辛い決断であった。これからどうなるのか、全く想像がつかなかった。この世の終わりだ、とすら思うことがあった。実際は決してそうではなかったのだけれど。

 これは休職をしてからの約三か月の「そのあいだ」に私が考えたことを書き連ね、整理し、俯瞰してみるための文章である。この期間が、樹木が立派な年輪を蓄える厳しい冬のような、苦しくも実りのある経験になることを願っている。この休職期間を、私は「放牧」と名付けた。放牧を終えるとき、私はあたたかい春の風に背中を押されるように、新たな一歩を踏み出せるだろう。

1 放牧宣言

 体に明らかな異変が出始めたのは、七月の終わりに差し掛かったころだったと思う。箱根に旅行をしているあいだ中、仕事のことが頭を離れず、社用携帯をなかなか手放せなかった。実際、仕事に関する連絡を旅行中に何度か取らなければいけなかった。雄大な山々も、温泉も、美しい芸術品たちも、いつも私に与えてくれるほどのどっしりとした安らぎを、与えてはくれなかった。

 旅行から帰ってきてからは、朝どう頑張っても起きられない日が多くなった。心のほうが起きろと内側から皮膚をどんどんと叩いても、体のほうは我関せず、断固として動こうとはしてくれなかった。ボイコットだった。起きようとすると、眼球までが嫌がらせのように、涙をあふれさせた。

 いつしか遅刻する日が増えていった。周囲は理解してくれる人が多かった。でも、体はどんどん悪くなっていった。ちょっとしたストレスを感じた時、動悸や胃痛が出るのが一般だったところ、そのころにはひどいめまい、吐き気、手足のしびれ、なんでもありだった。職場に行くこと、仕事をすること、誰かのミスをフォローすること、上司に叱られることに対して、私の体は全身全霊で猛反発していた。何度も会社の保健室に駆け込んだ。看護師さんからは、「行きたくないときは、来なくていい。お盆休みには目一杯遊んで、会社のことなんか忘れて、リフレッシュしておいで。それでもつらいなら、病院に行った方がいい」と、さっぱりと言った。彼女はとてもやさしかった。

 結局、お盆休みを満喫しても体の異変は治らず、病院に通い始めた。公園近くの、こぢんまりとした新しいクリニック。先生は快活でやさしく、安定剤、抗うつ薬、いろんな薬を試してみたり、話を聞いてくれた。九月に二週間会社を休んでみたが、それだけでは何の解決にもならなかった。しばらく頑張ってみたけれど、体のほうは全然言うことを聞いてくれない。二週間かけた和解交渉はあっけなく決裂してしまった。十月に入り、とうとう限界が来た。なんということか、死にたいとまで思った。このままでは、自分の人生が台無しになってしまうと思った。仕事なんて、自分がいなくたって回る。むしろ、みんなに自分の有難みをわかってもらうくらいがいいや。そう思って、病院に駆け込み、診断書をもらい、十月中旬から会社をしばらく休むことにした。

 この休み期間で、体と心との和平条約を何とか結びたかった。ただただ元気になりたかった。自分がどういう人間だったか、一度立ち止まって振り返り、生きている実感を持ちたかった。自分を幸せにできる何かを見つけたかった。休職という言葉は何となく薄暗く、重く、いやな感じだった。だからわたしは、もっと明るく、のびのびとした言葉を選びたかった。いつも気にかけてくれている先輩には「私、来週から『放牧期間』に入ります」と告げた。その人は、「そっか。よく決めたね。偉いね。」と言ってくれた。どこまでもあたたかい、太陽のような人だった。これが私の放牧宣言だった。

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