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月記(2021.08)


8月のはなし。



キチンと「修正」された悪役、それが「絵なんて役に立たねぇんだよ!」と叫ぶキャラクターなのだとしたら、もう創作の世界に悪役の居場所はない。想像力なんて必要ない。そんな世の中、僕はゴメンだ。



一度動いて喋るダ・ヴィンチ・恐山を知ってしまうと、どんなに切れ味鋭い文章を書いていても、あの感じで脳内再生されて、どうせオモロに取りつかれた狂人でしょう、と思ってしまう。よくない。



恵比寿へIlie 1st Liveを見に行った。フロアを眺めていて、今まで見たことのない雰囲気だと思った。BGMとして流れるインストは、よく知っているサクライケンタ印のものだと思ったけど、やっぱりどこか、その音が柔らかく優しく聴こえた。

僕は金子理江さんのことをまったく知らない。前所属グループも見たことがないし、どのように活動をしていたのかも知らない。ただ、知らないということは、ときにラッキーであるとも思う。すこし能動的になればいくらでも知ることができる時代において、知らない自分に気づいたときに、あえてそこから身ひとつで歩いてみるのも楽しかったりする。Ilieという活動にお邪魔してみようと思った原動力は、「重力の虹」と「aimai」のMV二曲、そしてサクライケンタというコンポーザーへの信頼だった。

よいライブだった。そう思った。周りには涙をこらえられない人がたくさんいた。僕はひたすら、次にどんな曲が演奏されるのか楽しみにしていた。わくわくしていた。バックバンドを従えた形で、どのような彩りをもって曲が奏でられるのか。金子さんの歌声と新鮮に出会い続け、次はどんな風に歌うのだろう、喋るのだろう、ずっとわくわくしていた。

Ilieの1st Liveは、恵比寿LIQUID ROOMで開催することに意味があった。これは大事なことだ。僕はそのうちの、かけがえのない一席にお邪魔させてもらった。こんな表現もどうかとおもうが、責任感があった。良いな、と思った。だからそう言いたかった。その責任はあると思った。だからまずここに記しておく、Ilieの今後がとても楽しみだ。



そもそも、「良いな」と思うものを「良いな」と言いたいから、僕はスマホに指を滑らせてきたし、キーボードを叩いてきた。それがなんでだろう、月末のこのタイミングにしてしまった。ここには理由があるが、それを整理して表現できないのがもどかしい。振り返ってみると、こうしたもどかしさと向き合うことが、この2021年の8月の主題になってしまった。「10年後の8月また出会えると信じて」、そう信じられたこの8月を過ごして、2001年の僕にも、2011年の僕にも、申し訳ない気持ちになってしまう。



キネマ倶楽部を訪れた。二階席、見たことのある赤いテーブルとソファ。帰りのエレベーターを待つとき、何気なく階数表示を見上げた。光る「6」という数字と、降りを示す下向きの赤い矢印が目に入った。「いま僕が乗れるのは降りなんだな」と思った。昇りに乗れる日はいつになるだろうか。



青い箱が届いた。また雨の日だった。ライブBlu-rayを再生して少し、一時停止してしまった。これは確かに「Solitude HOTEL」の記録であるが、僕があのとき見た「Solitude HOTEL」の記録ではない。今この視点を増やす必要はないかもしれないと思い、改めてドキュメントBlu-rayをプレーヤーに滑り込ませた。

2018年にMaison book girlに出会ってから、今まで。恵まれていると思った。特にここ1年は。そして8月22日にも突然与えられてしまった。笑いながら泣いた。ホテルを後にした彼女たちに、どんな旅が待っているのだろう。僕も旅の計画を立てないといけないのだが、その前に他人の旅路が明るいものであることを願ってしまうことを、もうしばらくは許してもらいたい。



アサギフライデーは定期的に抉ってくる。

こういう文章があっていい、僕はそう思った。アイドルグループの一員としてこうしたことを書くのはどうか、ということについては既に書かれている。

わたしのブログは、アイドルという肩書きがある今はある程度見てもらえているけど、その肩書きがなければ誰にも見つけてもらえてもらえなかった言葉たちなのである。

僕は、肩書きを使ってだろうがなんだろうが、この言葉たちを見つけられるようにしてくれたことに、感謝するしかない。僕の人生にちゃんと引っかかる言葉が増えた。それは豊かなことだと思う。

僕はアイドルではない。ただのひよこだ。それでも、なぜかTwitterを見てくれたり、noteを読んでくれたり、そんな人達がいる。同時に、そんな人達は、僕にそれぞれの言葉を見せてくれる。小さい頃からインターネットでケガをしながら生きてきたおかげで、こうした場があることを知った。根底にはいつもインターネットへの感謝がある。だからこそ、いろんなことを考えてしまうが、そのたびこの曲のことを思い出してちょっと心を奮い立たせたりする。



話の流れを変えてしまうが、家庭の事情、いわばバックグラウンド、そんなものばかり見られる世の中になっているように思うことがある。一貫した人生から放たれる、一貫した主張、ただそれだけが正しく、価値があるとされる。いま衝突が発生したとき、最も有効な手は、相手の背中に内側から突き刺さってくれるナイフを、そのバックグラウンドから見つけてくることになっている。それでいいのか?目の前の相手と、いま握った拳で殴り合う「ケンカ」は、どこにいってしまったのだろうか。ボコボコの顔で河原に寝そべる少年たち、そんなシミュラークルを追いかけ続けるのは、現実を見てなさすぎるだろうか。あと一応言っておくが、ケンカなんてしないに越したことはない。ただ、ケンカするなら、「いまここ」に立って、美しくやろうや、ということである。



この世には、酒に一味とかをまぶすメイドが、少なくとも二人はいる。



かつて、とあるバンドのライブで、知らん人にリフト台にされそうになったことがある。後ろから両肩をつかまれ、思い切り体重をのせられた。反射的にムカついて振り払った。「おもんない奴だな」とでも言いたげな目で見られた。ムカついたが、僕が「おもんない奴」であるということは、恐らく真実だった。僕はライブが好きだと言い続けているが、嫌いなところも色々とある。だいたいそんなもんだろう。好きは言わないと増えていかないのに、嫌いは黙ってても増えていく。ズルい。だから僕は好きを探したい。そうしないと、嫌いに飲み込まれていって、防御反応として「どうでもいい」に行きついてしまう気がするのだ。僕はそれが一番怖い。



この記事を読んで、ずっと考えている。

「修正」とはなんだろうか。そしてあと数日で、「変更」された単行本が発売される。細かい言葉の揚げ足取りをしているが、そうしたところに何かを込める人だっていると思う。それが言葉を扱うということだろう。



可燃物が多すぎる。夏ってそういうことじゃないでしょうが。うまく末広がってくださいよ。




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