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月記(2022.10)
10月のはなし。
あまりに小さすぎることを膨らませればハリボテになる。
あまりに大きすぎることを縮めればなにかを崩すことになる。
1か0で10月ですってか、デジタルですかコノヤロー。
そう書いている現在、もう11月が終わろうとしている。
0がなくなってしまったね。さみしいね。
遅くなりましたが、10月も、ありがとうございました。
§.映画に沼る倶愛「オールド・ボーイ」を見る回
#映画に沼る倶愛 #鑑想会 vol.3
— 月日 萌花 (@melt__away_) October 1, 2022
「オールド・ボーイ」をみる回 ありがとうございました(^o^)🥟
初見の方、2回目の方、10回以上みてる方が集まって色んな角度から感想語り合えるの 改めて最高すぎる!!
鑑想会、映画よくわからない方も、見尽くしてる方も楽しめます♪
次回もお楽しみに--✩ pic.twitter.com/Wj7TBFdwBP
「映画に沼る倶愛」(※愛をラブと読み、「クラブ」と読む)にちょくちょく顔を出している。僕は映画についてはド素人なのだが、これをきっかけにと色々見ている。これまで親しんできた映像作品といえばテレビアニメになるのだが、いつの間にかアニメも配信サービスで見るようになった。毎週決まった時間にテレビを点けるといった行動様式もすっかり薄れてしまった。いつでも見れるという油断が、じわじわと視聴習慣そのものを薄めていく。そんな鈍ってしまった身体に、映画という沼はとてもよく効くのである。
「オールド・ボーイ」についての感想を語り合ったなかで、とても強く印象に残っているものがある。「話を聞いてもらえた人と、話を聞いてもらえなかった人、それぞれの描かれ方」について。「オールド・ボーイ」は様々な視点から読むことができるタイプの作品だが、この視点は僕のなかには無かったものだった。この日以降、たびたび脳裏に浮かんでは沈んでいき、どんどん馴染んできている。これは僕が「話を聞いてもらえた人」から受け取ったものだ。「話を聞けた人」である僕は、幸運なのだろうと思う。
§.yumegiwa last girl 2nd anniversary live 「universe」
いいライブだった。
これ以上なにをどう言っても余計なことにしかならない。
とにかく、yumegiwa last girlは、いいライブをするグループである。
§.何度目かの「TEST」
現体制RAYの「TEST」をはじめて見た。フロアの二段目、ほぼセンター、ステージがよく見える位置にいた。すこしだけ懐かしいイントロが鳴ると、まだすこしだけ新鮮に映るボブカットの後ろ姿が、ぴょんぴょんと跳ねるように、ステップを踏んでいた。その後のことは細かく覚えていないが、心が大きく動いたことは確かだ。
関連して思い出した曲がある。fhánaの「 kotonoha breakdown」だ。
この「kotonoha breakdown」のMV公開に際して、メンバーの佐藤純一氏が公開したブログがある。タイトルからもわかるように、この曲は「誤配」がひとつのテーマになっている。
読んでいただければおおよそわかるかとは思うが、この曲はふたつのバージョンが存在しており、それぞれでボーカルが異なっている。歌というものは、少なからずそのボーカルを意識して作られていくものだ。最終的な宛先はリスナーだったとしても、その過程にも「誤配」の可能性がある。
ここでいう「誤配」とは、哲学者ジャック・デリダに由来する言葉だ。意味の伝達≒コミュニケーションの過程を郵便に例えて、全ての郵便物が必ず指定された宛先に届くとは限らないように、コミュニケーションは常に意図しない宛先に「誤配」される可能性がある……ひとまず僕はこんなニュアンスで捉えている。
「誤」という漢字を見るとネガティブなイメージを抱くかもしれないが、これは決してネガティブ一辺倒な話ではないはずだ。「kotonoha breakdown」に込められた願いもまた、このように僕のもとに「誤配」され、こうして再「誤配」されていく。
もう一度「TEST」という手紙に目を戻してみる。『歌というものは、少なからずそのボーカルを意識して作られていくものだ』と書いたが、「TEST」の歌はだいぶ細かく宛先が記され、示されている。「誤配」とは『決してネガティブ一辺倒な話ではないはずだ』とも書いたが、『あからさまな間違いでも』と書かれたこの歌は、「誤配」の果てにあるダンスホールに響くべき希望の歌なのかもしれない。そんなことを思いながら、今日も僕は無数のデコイにぶつかっていく。
§.こころの拠り所 空蝉さな・脱皮
なんとなく、この日は後ろの席に座ろうと思っていた。ステージは高くない。フロアの傾斜もない。すべて事前に承知のうえで、ステージが見えるかとかはさして重要ではなかった。この場にいたかった。とにかくそれが大事なことだった。
これは意識していなかったのだが、後ろの席にいると関係者の方々の姿が目に入る。ステージに向いた眼差しは、どれも確かな熱を帯びていた。さなさんが母親についての話をはじめると、恥ずかしそうに肩をすくめる人がいた。もしかしたら、そうなのかもしれないが、僕にそれを知る術はないし、それでいい。
「201」を聴きながら、ぼんやりと天井を見上げていた。そうしないと、眼鏡が涙で汚れてどうしようもなかった。これほどまでになる予定ではなかったのだけど。
2020年、はじめてユレルランドスケープのライブを見た。あれから色んなことがあった。よく思い出してみれば、その前からも色んなことがあった。これからもきっと色んなことがあるだろう。
7Fに忘れてきたものが多すぎて、もはや全て戻ってくるわけなどないのだけど、階段に立ち向かうための足腰くらいは鍛えておこう。いつでも、お気に入りの音楽が聞こえるフロアへ行けるように。
§.「entity」の在り処
スタジオライブとはなんだろうか。ライブとは。スタジオとは。ライブハウスとは。ステージとは。
「entity」はそうした細かな問いに対して、総合力で真っ向勝負を挑んでくる演目だ。さまざまな仕掛けを散りばめて楽しませてくれるクロスノエシスだが、その根幹にはシンプルに鍛え上げられてきたパフォーマンス力(ぢから)がある。アイドルパフォーマンスは総合力で評価される、というような論を聞いたことがある。あるパフォーマンスの総合力について説明しようとしたとき、言葉でそれをするのはなかなか難しい。最も雄弁に語れるのは、そのパフォーマンスそのものだろう。
ゆえに、クロスノエシスは「entity」そのものを世に放ち、その在り処を示した。これが我々の力だ、と。
●今月あたらしく知った音楽
●今月なつかしんだ音楽