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ダンスホールと母の腕

私は生きる事に音痴になった過去があります。
まるで、ぐにゃっと歪んだ時間のような空間が、
動きと動きを連動し、ダンスをして 「恐れ」や「恥」と言った感覚と一緒に エンドレスに踊り出したかのようでした。
私はその動きで吐き気を感じながらも何となしにゆっくりその時間の中で踊らざる負えず一緒に踊り出してしまったのです。

巷にあふれている自然現象が自分の気持ちと目が合うような気がして、そこで”ある”話をひそひそとしました。
良い話も、悪い話も全然辻褄が合わず、バラバラに文字が跳ね返り 離れていったのです。

それまでの私は、大きな過ちの中で物事を判断し
目で見るもの、耳で聞くものを5~7割程度あてにし、色々区別していました。
もう一度言いますが、
それ自体があたしの大きな過ちでした。
しかしながらその過ちはほとんどの方が今でも犯しつづけるしかない過ちであることも事実なのです。
”そこにあるが、ない”ダンスを避けて避けて 私が一番欲しいものは現実でした。
それが一番欲しい理由は、まぎれもなく”ある”ことも”ない”ことも私にとってすべてが現実だったからです。
地獄のダンスホールに一本の糸が垂れてきて、それを全力でつかみたいくらい現実を掴むのが難しかったからです。
考えてあきらめて 疲れて 生きたくて
自分自身でダンスホールの壁を登って外に出るのを考えるのをやめました。
その時
まず味方になったのは憶測と打ち消しでした。
無感情と、静寂なまでの心音だけが味方になってくれるような冷静な感覚がありました。
そこがぶれると、自身(恐れ)に負けてしまうからです。

そこを超えると、
道理のようなものを生き物の中や自然の中にあるような
すべて淡々と繋がっているが、
それぞれがせめぎ合っているという次元ではなくシンプルな世界が
パズルピースがはまっていくかのようにゆっくりと広がったと同時に
本人にとっては現象が現実ではなく、しかもそれが
「自分自身」の一部であること。
それを理解することがやっと出来た瞬間から
少しずつ音が消えていったのです。
生けるものは何度も死ぬように感じると言ったのは
生きるという事と死ぬ事は真逆にも感じなかったからです。
死んだように生きるとも
生きたように死んでいるとも違います。

ぐるぐるリズムに合わせて生きているのです。
みんな波紋の中で母にハグされて、「君をどこにも置いていかないからね。」と言われているのです。

おわり

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