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感情解放のカウンセリングを受けてきました PART1

こんにちは。

HSPキャリアウーマンのエミリーです。

3月は突然4月なみに暖かくなったと思えば、雪が降るほど寒くなったりと、安定しない気候ですね。

なんだかまだまだ寒いなあと思っていたら、通りの桜は満開でした。

今日は最近受けたカウンセリングについてお話します。

先日、夫と激しい喧嘩をしてから、私はやはり何かおかしいのかもしれないと思って、実は心療内科に行っていました。

実は以前、仕事や夫(当時は結婚前)との関係のことで、ストレスがひどく不眠症と適応障害になってしまったことがあり、その時に通っていた心療内科に今回もお世話になっています。

その心療内科は極力薬を使わずに治療するという事を掲げており、薬漬けになるリスクがなくて安心して行くことができます。

先生とのお話の中で、私が喧嘩になってやっと自分が我慢していた事や嫌だと思っていた事に気が付くことが多いという話や、過去の家族との確執やその時の自分の感情を解決できていない気がするという話をしたところ、「感情開放のカウンセリング」を勧められました。

1週間後の予約を取り、その日は終えました。

そして、その予約の日がきました。

初めて会うカウンセリングの先生なので、少しドキドキしました。

先生は女性でとても丁寧で優しいながらも強そうな人でした。

カウンセリングでは、タッピングという手法を用いて、私が心で引っかかっている話をしていきました。

人間の身体には、いろいろとツボがありますが、感情を開放できるツボがあるそうです。

話をしている間、先生はずっと私の手を取り、手の平の「空手チョップをするところ」を「トントントントントントン」と優しくタップしていました。

ビフォア、アフターが鮮明にあるわけではないので、効果がどれほどなのかはわかりませんが、

特に引っかかっている内容を話す時は、涙が溢れて止まりませんでした。

わからないですが、確実に感情は開放できたような気がします。

先生は常に優しく語りかけていましたが、一方で、これはあなたのせいじゃないという文脈に関しては、強く強く語りかけてくれました。

その日、私は大学受験の時の話をしました。

そもそも、夫との喧嘩を経て、今夫に言いたいことやわかってもらいたいことはありますか?と聞かれ、

私が真っ先に頭に浮かんだのは、夫に私が「愛されて育ってこなかった」と言われたこと。

過去に3回ほど言われたことがあります。

今回、喧嘩がヒートアップするほどには、夫はそういう嫌味を言ってこなかったですが、私は過去の経験からまたこういう事を言われると怯えて、防衛&敵対モードに入ってしまったようです。

なぜこういう事を言われるようになったのかの経緯は、正直さだかではありません。

私が夫にそう言ったのか、私の悩みを聞いていて夫がそう思ったのか、私が愛着障害などの本を読んでいるところを見てそう言ったのか。


そういう話をしているうちに、話は私の大学の話になりました。

大学受験の時、ちょうど母親がうつ状態になってしまって、常に体調が悪そうで、寝たきりになってしまいました。

私は受験勉強をしながら家事のすべてをこなして、母を、家を、支えたつもりでした。

私の高校からは東大/早慶クラスに入るのにはとても大変で、高校1年生の頃から学校の勉強スピードとは別に、一人でずっとコツコツ勉強をしてきました。

学校生活や友達との遊びも削って、必死の思いでなんとか孤独に頑張っていました。

数少ない進学校に通う友達をなんとか心の支えにして頑張っていました。

本当は、私にとって、高校生活の集大成とも言えることだったのかもしれません。

そんな大学受験でしたが、いつの間にか母や家のことでいっぱいになり、自分の心や体や時間を犠牲にしてしまいました。

当時は一家の大ピンチを私が救わなければという使命感でいっぱいでした。

だけど、それを2年続けた頃、私だけが必死になって家族を救おう/守ろうとしていただけで、気が付けば、家族からはそんなにありがたいと思われていなかった気がしますし、自分の犠牲のわりには自分の努力は全く報われない思いがしました。

私は一気に絶望しましたし、母の看病に疲れたこともあって、このまま家にいたら私がおかしくなってしまうと思い、家を出てひとりになりたいと思って、これまで志望していた大学を受験せずに突然地方の大学を受験して、遠く離れた大学に進学することになりました。

私は母と家族から離れて、今まで訪れたこともなかった土地での生活をスタートさせました。

当時、家計が苦しかったことや、父は地方の大学に行くことをよく思っていなかったことから、実質ほとんど仕送りなしでの生活でした。

奨学金がおりて、支給が始まる7月までは、バイトをしまくり、なんとかつないでいました。

みんなが新入生歓迎会で遊んでいる中、いち早くバイトを見つけなければと必死になっていた記憶があります。

バイト先でセクハラを受けたことがあり、その帰り道、つらくて悲しくて、泣きながら帰っていたら、よくわからない食べ物でアレルギーを発症し、家に着いた頃にはアナフィラキシーショックになっていて、救急車で運ばれました。(笑)

せっかく節約しながら日々頑張って暮らしていたのに、必死になってバイトもしていたのに、病院で治療費として5,000円をとられたその日は本当に絶望でした。

運び込まれた病院は家から少し遠かったけど、とてもタクシーで帰ることはできず、よれよれになりながらも、夜中にとぼとぼ家までひとりで歩いて帰りました。

そんな大学生活も7月に奨学金がおりてからは余裕をもって暮らせるようになり、ある程度の生活ができるようになりました。

私は精神的に回復して、大学生活を謳歌するようになりました。

ところが、実家では母親の毒に妹が侵されるようになっていたようでした。

母親もうつ状態から完全に回復はしていなかったのと、元々性格的に疑り深くて、人のことを信じないし、父との関係も長年うまくいっていなかったので、基本的に心が病んでいて、傷つきやすくて攻撃的な側面がありました。

そのせいで、私が知らないところで、妹は母親からの攻撃をひとりで受けたせいか、どんどん病んでしまって、リストカットをしたり、死にたいと言ったりしていて、心療内科にも通っていたようでした。

母親は妹がそうなってしまったのをすべて学校のせいにして、学校に乗り込み、教員に叱咤していたそうです。

妹は母親のその行動がとても恥ずかしくて、きっと学校にも完全に居場所がなくなってしまったと思います。

私が家族を離れ、自分のことを優先したがために、大事な大事な妹が犠牲になってしまった。

ずっとずっとそのことが頭から離れなくて、ずっとずっと自分を責めていました。

妹を守れなかった。

病んでいる母親も守れなかった。

自分だけ逃げてしまったと。

ずっとずっと悔やんでいました。


しかも、当時は全く状況がわかっていなくて妹に何もしてあげられませんでした。

状況が詳しくわかって、いろいろな点において母が悪いと認識したのはずっと後になってからでした。

その頃には妹は家を出て、家族とも絶縁状態になり、私も3年くらい距離をおかれてしまいました。

壮絶につらくて悲しい3年間でした。

たまに妹のことを思って涙が止まらない日がありました。

ショッピングモールで妹に似た人を見かけた時には、その場で号泣してしまいました。


カウンセリングではそんな話をしました。


先生の言葉で印象的だったのは、強い目力で仰った「お母さんは子供たちに甘えすぎていた」「こうなってしまったのは、あなたの責任ではなく、お母さん・お父さんの責任です」という言葉でした。

「子供のあなたには、何の責任もない。」


私は長年、母親も妹も家族も守れず、自分だけ逃げたことをずっと責め続けてきたし、今でももっと他にやれることがあったと思っていました。

まだそう思っています。

きっともし過去のどこかに戻らなければいけないといシチュエーションになったら、大学受験の頃に戻ることを選ぶかもしれません。

自分のストレス発散をはかりながら、より強くなって、やり直すと思います。


そんな思いがまだあるからこそ、100%先生の言葉を受け止めることはできなかったですが、先生は「あの時のあなたはお母さんから離れる事が1番だった」「それ以上のことはできましたか?」と仰っていて、

自分ひとりのことを考えたら、たしかに、当時は自分も壊れそうで、それ以上のことはできなかった、自分を生かすにはそれが精一杯だったと思います。

でも妹のことを思うとそうは思えなくなります。

先生はこうも仰っていました。

「妹とあなたは子供であるというところで同じ立ち位置なのです」「お姉ちゃんだからどうこうとかではなく、親と子供という点からすると、同じなのです」

「もしあなたが妹で、妹があなただったらどうでしょう」

わかるようで、わかりそうで、腑に落ちそうで、もう少し、という感じでした。

「他にできることはありましたか?」

この質問、少しウっと刺さりました。

過ぎ去ったからこそ、もっと何かできたんじゃないかと、もっとやれることはあったはずだと思ってしまいますが、確かに、当時やれることはやっていたのだと思うし、あれ以上に何かができる状態ではなかったかもしれません。

ある意味自分を過大評価しているのでしょうか。


話はそれますが、母には何を言ってもダメな時があります。

妹が家族と絶縁する前に、母と初めて正面からぶつかって思いをぶつけましたが、母はひとつも寄り添うことなく、全否定していました。

そん感じで自分の都合の悪いことは全否定したり、人が変わったように頑なになってしまうことがあります。

それについても、「お母さんは受け止める力が残っていない」と言っていました。

「受け止める力が無い人に何かを言ったところで、受け止められないのでそうなってしまう」

母が弱い人であることは気が付いていましたが、「受け止める力が無い」というのは言われて初めてきちんと意識ができた気がします。

自分の頭の中だけでは、母を否定するようでそう思うことはできませんでしたが、先生にそう言ってもらえて、そうだよね、と少し思うことができました。

自分だけでは、正しい考えだとしても、母に悪いからこう思ってはいけないなど、邪魔が入ってしまいますが、第三者と話をすることで、客観的に事実を受け止められる気がしました。


まだ、先生が仰ってくださったこと全ては、きちんと受け入れられていないですが、少し扉が開いたようなそんな感じがします。

次は2週間後。

感情開放をすると、号泣するし、重たい気持ちになるし、向き合うのは本当に大変ですが、先生も心強いし、夫もいるし、ひとりだけではないと思えると、頑張れる気がします。

読んでいただき、ありがとうございました。

最後に、疲れた心を癒すべく、石垣島の写真を添付します。

石垣島 川平湾





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