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いけにえを求める心理「誰が罪人⁉」という犯人探しで全員の幸福度が下がる理由

今の日本は、いけにえ探しという憂さ晴らしがなければと成り立たないほど歪んでいる。

著名な人ほど、社会的ないけにえになりやすい。頂点を極めた人の没落に密かなカタルシスを覚える人も少なくない。

生贄探しは犯人探しに類似しており「安全な場所から人を叩いてガス抜きしたい」という無意識の欲求によって大きな渦ができる。

いじめの構造によく似ている。

クラスでいじめのターゲットが、やがて他の人間へとすり変わっていくように「叩ける対象が欲しい」という無意識に突き動かされた、正義の鉄槌を振り下ろしたがる正義中毒者がいつの時代も一定数いるようだ。

人間には多かれ少なかれ誰でも加虐性、嗜虐性が備わっている。誰かを攻撃した瞬間、報酬系の快楽物質が分泌される。これが気持ちいいため、人の攻撃行動は強化されやすい。

脳が味を占めるのだ。

しかし、これはあくまでこの快楽に浸れるのは一瞬に過ぎない。

この一瞬の快楽の虜となり、いじめ依存になる人が後を絶たない。

「誰かを攻撃することは気持ちいい」という原理をまず知っておく必要がある。

攻撃している最中は自分のことを省みる必要がないし、むしろ「自分は、よいことをしてあげてる」と錯覚する人さえいる。

この手の錯覚に気づいていない人ほど「あなたのためを思って」と言いたがる。

自分の無意識は攻撃欲求で満たされているが、潜在している意識ではその事実に気づけていない。

大義名分は「社会正義」「誰かのため」なのだが、潜在的な欲求は「人を使って憂さ晴らしがしたい」なのだろう。

「いけにえ狩り」というニュアンスを含んだ犯人探しが続けば、社会はどんどん殺伐としてくる。

そして加虐性を抑えきれずに人を攻撃しつづけた人は「いつか自分がやられる側に回るのでは?」という恐怖を抱えるようになる。
誹謗中傷を続けていた人間が晒されて攻守が入れ替わることも。いじめていた側がいじめられる側になる構図をよく見かける。こうなると完全に悪循環だ。

さて昨年、村中直人さんの「叱る依存がとまらない」という良書を紹介させてもらった。

この本を読むと、人間がいかに攻撃的で加害中毒に陥りやすいかがわかる。

人の行為は、いとも簡単に強化される。そのため「なぜ自分は、この行動をとっているのか?」を、こまめに毎日振り返らないと取返しのつかないことが起こるだろう。

たまに人間関係が常に戦争の人を見かけるが、こうなってはもう手遅れだ。人間関係のトラブルや、症状の固着ゆえに発生していることが実に多い。

そうならないためには、自分の中にある加害性について理解しておく必要がある。

嗜虐性が刺激されそうになったらその場を離れる、「そんな不毛なことはやめとけ」と自分を引き留めてくれる、もうひとりの自分を作っておく、などができれば加害中毒に陥ることはない。

それくらい対策をしなければ、すぐに加害中毒に陥るのが人間という生き物なのだ。

失敗の原因を見つけ内省することは必要だが、ともすれば「責任をとらせる名目で相手を攻撃したい」という潜在意識が、ひょこっと顔を覗かせることも。

そういった欲求が起こることは、えらそうにこの文章を書いている僕にももちろんある。

ホモサピエンスは、温厚な猿ではない。複雑に本音と建前を使い分けながら、巧みにコミュニケーションをはかる獰猛な猿である。

人を過剰に攻撃する人の心は、必ず悲しみや寂しさで満たされている。

しかし当人に内省や自己受容の習慣がなければ、他責に走り誰かを攻撃することでフラストレーションの解消を図ろうとする。

誰かの攻撃に明け暮れる前の段階で、自分としっかり向き合うことが必要だ。誰かを攻撃する前に、ポジティブな感情も、ネガティブな感情の双方を受け取るのが先決だろう。

そこから逃げていると、いつまでたっても血みどろの争いが収まらない。

我々は社会という狭い水槽で暮らす、ストレスフルな生き物だ。

何かのきっかけさえあれば、すぐに争いが発生する。

いつの時代も人を争わせることで、利益を得る人間がいる。こういった人間は常に誰かを揉めさせようと次々に仕掛けを講ずる。

暗躍する人間から操作されないためにも、いけにえ探し、犯人探しの不毛さに気づいた方がいいだろう。

冷静に考えると、そもそも最初から犯人がいない場合がほとんどかもしれない。

しかし「憂さ晴らしをしたい」というストレスフルな一部の人間は、なぜか「犯人がいるにちがいない!」と思い込んでいるのが恐ろしい。

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