「母という呪縛 娘という牢獄」(著・齊藤彩)を読み、毒親問題の原因と「毒が連鎖する」その原因を考えてみた

仕事で毒親問題について調べているときに、齊藤彩さんの著書「母という呪縛 娘という牢獄」の存在を知った。

「滋賀医科大学生母親殺害事件」の加害者である女性を、ジャーナリストの齊藤彩さんが取材し作り上げた渾身の一冊。

本の内容を知るうちに「これは読まねば」となって即購入した。

印象的なのは、何度も出てくる母と娘の生々しいLINEのやりとり。

娘の自由な生き方を一切認めない毒母はLINEでしばしば「あんたは私を不幸のどん底に落とした」「私はだまされた」といった、いかに自分が被害者で、娘が加害者なのかを主張し続ける。

毒親とは大人になりきれず、成熟を拒否した人たちのことだ。

彼ら、彼女らは子供がいようがいまいが「常に中心は自分である」「自分を中心に全てが回るべき」と本気で考えている。

しかし社会はこういった人に対して、容赦ない現実を突きつける。

「あなたは王様でもなければ、王女さまでもないのだから、そこまで重宝されません」という現実を突きつける。

すると毒親の心は深く傷つく。だからこそ「自分は傷つけられた」と被害を子供に対して訴えやすくなる。

本当は「被害を受けた」のではなく、当人がそのように感じて、そう思い込んでいるだけである。

自分を俯瞰視できずメタ認知能力が弱い人ほど、自己への執着が強まり被害者ポジションをとりやすい。

本書に書かれた被害者ポジションに固執して毒親による、我が子を責め続けるLINEに既視感があった。僕は過去に毒親を持つ人たちから、同じようなLINEを見せられたことがある。

LINEの内容が本書でのやりとりと、酷似していたので驚いた。

毒親は徹頭徹尾、自己中心的だ。

「あなたよりも、もっと辛いのは自分」という言い回しを頻繁に用いる。

これは自己への執着が強いため、自己憐憫に陥りやすいからだろう。

自己愛が強すぎるあまり、自分にばかりフォーカスする。どこまでも自分が、かわいいのだ。

それゆえ脆弱な自分が傷つきやすく「自分を傷つけやがって」と我が子を恨む。

さまざまな人が「自分が大嫌いと自分が大好き」は裏表。本質的には、どちらも同じであることを看破している。

どちらも自分にばかり執着する、極めて自己中心的な人間だ。

自分に執着しすぎるから、人への対応が雑になる。他者を軽視し、ないがしろにする。

自分は見えるが、他人が見えない。自分に関心はあるが、他人には関心がない。それゆえコミュニケーションが歪になる。人と対等な関係を築けない。

「滋賀医科大学生母親殺害事件」では、娘が母を殺めるという惨事にいたったが、毒親問題は常に死と隣り合わせだ。

ちなみに遠野なぎこさんを虐待した毒母は、自らの手で人生に結末をつけている。

行き過ぎた加害は恨みを買うため、やがて復讐されて亡くなってしまう人も少なくない。

毒親の辞書に「しょうがない」という折り合いをつける言葉、「まあ、いいか」という事態を受容する言葉は見当たらない。

愛する我が子なはずなのに、我が子へ投げかけられるほとんどの言葉が否定と他責で占められている。

幼少期から攻撃を受け続けた子供は自由を奪われた分、毒親を強烈に恨む。そして、年齢を重ねるにつれて復讐の機会を伺い出す。

多くの毒親の考えは、偏っており極端なものが多い。ゼロか百かの白黒思考になり、自分の正しさに固執してそれを家族に振りかざす

「滋賀医科大学生母親殺害事件」で実母を殺めた女性も、白黒をはっきりつけなければ気が済まない「二択の人」と本書の中で書かれていたが、これはどこかで実母を無意識のうちにコピーしたのかもしれない。

娘の手によって殺された母親もまた背景を調べると、誰かの被害者だったことが明らかになる可能性がある。

毒親のルーツをたどると、その親がまた毒親だったケースは非常に多いのだ。

人格形成には必ず因果がある。

何の影響もなく、異常なまでな他責、自己憐憫という名の自己執着は発生しない。

きっと何か人格が歪む原因があって、歪な人間になってしまったのだろう。

彼女もまた誰かの犠牲になった結果、実子の人生をがんじがらめに縛る毒母になったのかもしれない。

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