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加藤諦三さんの「自分に気づく心理学」から学ぶ、人が規範意識に執着する理由

昨年、ひょんなことから、ある面倒な人と関わってしまい数カ月「お前の生き方はそれでいいのか?」と何度も詰問され、えらい目にあった。

一言でいえば、彼は規範意識が非常に強い人、自分の正義を疑わない人。

ようやく疎遠になることができて、今こうして冷静に振り返ることができている。

彼に執着されたことは「正しさへのこだわり」を、いまいちど考える機会になった。

加藤諦三さんの本は10代の頃から、数十冊と拝読しているが読む年齢やタイミングによって気づきがある。

今回、ご紹介するのは、「自分に気づく心理学」▼

本書の中で規範意識について言及している箇所があった。

規範意識とは、道徳、倫理、法律といった社会のルールを守ろうとする意識のこと。

これが強すぎる人は「クラスの中にルール違反する人がいないか?」と、目を光らせる風紀委員のような存在になり、周囲から疎まれる。

規範意識が肥大化してしまうと、全てが「するべき」になってしまうと本書の中で言及されている。

確かに、正しさへのこだわり、枠組みへのこだわりなどといった執着が強い人ほど「べき思考」が強い。

自分の「べき」に反するものをみると、当人が否定されたような気持ちになり物申さなければならなくなったり、相手との境界線を超えてしまいがちになる。

「べき」にこだわる人ほど、相手の中の「べき」をつい軽視、無視してしまう。

印象的な箇所を引用させていただこう。

散歩していても、何かこんなことをしてはいられないという気持ちになり、散歩を楽しめない。一人で椅子に坐って、風がほほをなでていく、あーいい気分だなあと感じて満ちたりるというようなことがない。いつも何かこんなことをしていてはいられないと焦る。

「自分に気づく心理学」加藤諦三


これはかつての僕にも当てはまるところで、考えさせられる一文だった。

何度もnoteで記しているが、僕はワーカホリックだった。

中毒的に仕事をする人は、自分に無価値観を感じていたり「何かやらなきゃ」と追い立てられている感覚を持っている。

原因を掘っていくと「〇〇な自分でなければならない」といったこだわりに行き着きそうだ。

僕は今でも真面目を自覚しているが、かつては生真面目だった。

生真面目時代は、自分がいい加減だと感じる人間の一挙手一投足が許せずイライラしたものである。

四十路になり「中年の危機」と呼ばれる、ミッドライフクライシスに差し掛かり苦しんでいたさなか、養老孟司さんが「現代人は花鳥風月に触れることを忘れている」とおっしゃっていた。

この言葉にずいぶん救われた。

テクノロジーに囲まれ、「べきねば」で突き進んだ先にあるは疲弊だった。

俳句を始めてよかったのは、関心が自然に向きやすくなったことだ。

都会に住んでいるので自然は少ないものの、真夏に日差しを避けて木下闇に入り信号待ちをすることがある。

マナーの悪い人がいるので、空き缶やたばこの吸い殻が木々の根に捨てられている。

昔の僕なら「けしからん!」と怒りを覚えていたが「ゴミを捨てられたこの木の気持ちになって俳句を詠んでみよう」と考えた瞬間、ふっと心が緩んだ。

全てを「べきねば」で捉えるのは、裁判官のような立場からジャッジするのに近い。

事象をそのまま捉えることは、規範意識を緩めることにつながる。

「自分に気づく心理学」では、本当に自信がある人ほど他人から評価を気にせず、生きることを楽しみ気持ちが安定していると記されている。

楽しみには緩みが含まれている。

規範意識への捉われは視野を狭くする。

自分の苦しみに注目する苦しくなるが、自分を相対化して受け入れて外側に目を向けることできっと道は開ける。

「ジャッジせずに、まず受け入れる」

規範意識への捉われを緩めるには、まずこれだと感じている。

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