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『鳥がぼくらは祈り、』島口大樹

本作に出てくる主人公たちと私自身の共通点はない。生活環境も、性格も、顔や字だって、無責任に言うけど多分全然違う。
それでも『鳥がぼくらは祈り、』を読んで、私は懐かしい気持ちになった。気持ちだけではなかったかな、懐かしい香りもした。

部活帰りの夜、嗅いだ夜中の道の匂い。部活で疲れているはずなのに、友達とくだらないことを駄弁る空気。そんな懐かしいものを思い出させた。

彼らと私は違う、でも抱いた感情は同じだったのではないか。

島口大樹さんは本作で群像新人文学賞を取ってデビューされた。2作目の『オン・ザ・プラネット』では芥川賞候補にもなり、今注目されている作家さんだ。そして短い期間で小説が発表されている印象がある。

島口さんは、正直に感情を言葉に綴っているという印象がある。丁寧に物語を組み立てているというよりは、自分の中で生まれる言葉を書き殴っている、素直に出し切っているという感じ。それは、はちゃめちゃだという意味ではなくて。伝わりやすい言葉で言い換えられるところを、整頓しないで生まれたままの言葉を使うという意味が近いかな。
自分独自の言い回し・言葉で伝えたい、という意志を感じる。

本作は特徴的な文体で話が進む。当時の選評の言葉を借りると「一人称内多元視点」と言うらしい。語り手は一人称"ぼく"だが、次第にぼくの仲間たちが語り手に変わる瞬間がある。
しかし、変わったからと言ってぼくの役目が無くなる訳ではなくて、語り手の任務も放棄せずに上手い具合にぼくと仲間たちとの人称が絡まり合う。

これがたまらなく心地良かった。

最近は二人称小説を読む機会が多くて、人称について考えていたタイミングで、この不思議な小説と出会ったこともあって楽しく読みました。これはぜひ読んで体験してほしい!

しかし、一度立ち止まる。作者はなぜこの手法を選択したのか。
作中、主人公であるぼくを含めた四人が似たもの同士であると語る。その後も、欠如の部分はそれぞれ違うにしても同じ闇を抱えていることや、闇と対峙して乗り越えようとする姿が四人分描かれる。そういう四人は四人として存在するが、結局一人分だということを語りの形で伝えたかったのかなと思った。

「」の前にセリフに繋がるような一文を添える仕組みは、"誰が言っていてもおかしくない"またはセリフとして発さなくても"同じことを思っている"を表現したいのだろう。「誰が」という部分よりも「どんな感情/思いだったか」が大切で、それが四人の共通認識だったことをよく表現されていて、構成と文体の勝利だと思った。

よく意味不明に文体を凝らす作家はいるが、「鳥がぼくらは祈り、」のように意図があり、そうせざるを得ないからこの文体なのだ、という工夫が作品性と当てはまり成功する作品を読むとたまらなく気持ちが良い。

さて、文体も良いが私はラストシーンが大好きなのだ。ハッピーエンド、バッドエンド、どちらでもない、捉え方による〜などエンディングには色んな形がある。小説を通して結局大事なポイントになるのはエンディング、(オチ)なのだ。オチが悪ければ勿体無いと言われるし。

オチだから深くは言わない。
自分がラストシーンを好きだと思う理由は「日常の続き」を想像できるからだ。物語を本という物体に閉じ込めたからあのシーンが終わりに来たが、物語として終わっているわけではない。考え様、想像次第では彼らは読者の中で生き続ける。それはつまり彼らには未来があるということ。明確にそれを感じられて嬉しかった。

終わりが終わりではないことは、この作品において救いだ。

一言挟むと、どの作品でもやっていい手法ではないし、オチがあることが悪いと言っているわけではない。

私が2023年の上半期に読んだ作品の中で、一番良かったと思えたのが「鳥がぼくらは祈り、」でした。読めば分かる、はこんな時に使うのだろう。祭りのシーンがあったり、日本で一番暑いと言われる街・熊谷が舞台で自然を感じる作品なので、夏に読むのもおすすめです。ぜひ!

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