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★【NIMBYとSNS】いやわかるけど、うちのTLには流れ込ないでね

NIMBYという言葉を聞いたことがありますか?

Wikipediaによれば、

NIMBY(ニンビー)とは、英語: “Not In My Back Yard”(我が家の裏には御免)の略語で、「施設の必要性は認めるが、自らの居住地域には建てないでくれ」と主張する住民たちや、その態度を指す言葉である(「総論賛成・各論反対」)。

要するに、「そのものが必要だとはわかっているけれど、私のところには持ってこないで」という態度です。

一時期、南青山に児童相談所を建てる計画について、一部の住民から反対意見が出ているという報道が話題になりました。説明会では「3人の子どもを育てる女性が『意識の高い公立小学校に子どもを入れるため、億を超える投資をして家を建てた。南青山はお金を稼いで住むべき土地。ブランドイメージを守ってほしい』と述べると、会場から拍手が上がった」という場面もあったといいます。


もっとも、児童相談所を必要としてこなかった人からしたら、この記事でも取り上げられている児童相談所の重要性の一側面すら理解されていない可能性もあります。
とはいえ、住民に利益を提供するものであっても、ブランドイメージや自分の生活を害するのであれば良しとしないというのは、立派なNIMBYと言えます。

日本で一番有名なNIMBYといえば、成田空港問題ではないでしょうか。成田空港の建設に反対した住民による激しい反対運動です。空港といえば、最近では羽田空港を発着する航空機が都心スレスレを通過する飛行ルートに対しても反対の声が多数上がっていました。


議論を拡張


NIMBY論を抽象化すると、「汚らわしいもの、見たくないもの、危険なものを遠ざけ、自分を守る」という一般的な(?)姿勢が見えてきます。そしてこの「汚らわしいもの、見たくないもの、危険なもの」とは、先に述べた児童相談所であったり、空港であったりするわけです。人間のリスク回避行動に、「必要性」というエッセンスが入ることによって、NIMBYという矛盾した態度となります。

Wikipediaを読んでいたら、NIMBYは移民・難民受け入れの観点でも使われる概念であることを知りました。同記事には、「街頭インタビューで『あなたの家に移民を受け入れられますか?』と聞かれて『受け入れるべきだ』と答えたスウェーデン人は、『この難民の男性を受け入れてもらえますか?』と実際に難民男性が登場すると、発言を翻した」という例が載っています。

この例からわかることは、NIMBYは差別の議論にも応用できるということです。


NIMBYと差別


人は他人を差別する時、理由なく差別することはありません。差別をしてはいけないという社会規範が存在するからです。そのため、「肌の色が違うから」「元々劣った人種だから」「男性or女性だから」「同性愛車だから」「タバコを吸っているから」「美少女に萌えてるから」「(羅列した人たちは)気持ち悪いから・迷惑をかけている、要するに不快だから」という理由づけをすることで差別する自分を正当化し(もしくは差別という認識そのものを抹消し)ます。


NIMBYの根底にあるものは差別と同じことです。児童相談所を高級住宅街に置くことを反対するのは、「児童相談所がもつイメージが不快だから」と公然と言い放っているのと同じです。
裏を返せば、差別されるもの全て、NIMBYの態度を呼び覚ます可能性があるということです。
例えば、ホモフォビア(同性愛嫌悪)というのも、自分のコミュニティや隣に同性愛者がいて欲しくないという差別の一種ですが、これが「同性愛も認められるべきだけど…」という考えと併せ持たれている場合、NIMBYとなります。性的少数者であることを理由にその人間を採用しないという企業にも同じことが言えます。


SNS時代の人間関係とNIMBYの危険性


SNSが重要な役割を担う現代の人間関係には、旧来の人間関係と圧倒的に異なるものが存在します。それは「ミュート」と「ブロック」の機能です。


対面での人間関係では、相手の発言や存在そのものを遮断することは容易ではありません。

しかしSNSでは、気に入らない発言をする人、苦手な同僚・同級生の投稿やアカウントそのものを遮断することが出来ます。相手にもばれずにです。
SNSが人間関係に占めるウェイトが大きくなればなるほど、ミュートやブロックの意義も大きくなります。その人の中で遮断できる部分が大きくなるからです。例えば、SNSでしか繋がっていない友人は、ブロックしてしまえば完全に遮断できます。


NIMBYの難しいところは、「そのものが必要だとはわかっているけれど、私のところには持ってこないで」というダブルバインド性です。こうした人は逆に、それが自分のところに持ってこられないとわかれば、そのものの必要性を述べるのは容易いのです。
これがSNSのミュート・ブロック機能と結びつくと何が起こるかというと、ひとりの人間がいとも容易く、「そのものの必要性を説きながら、そのものを実際に必要としてる人を遮断することができる」のです。要は本音と建前を使い分けられるし、本音を裏では堂々と実行できる状態です。

これによって、あるものの必要性はインターネットの空間で多く叫ばれているのに、その実裏では全く認めらていない、むしろ暗黙のうちに差別され続けるという状況が引き起こされます。

とはいえ、SNSにおいてミュートとブロックは絶対に必要な機能です。SNSをはじめとしたネットの発言というものはエコーチェンバーによって過激になりやすく、過激な発言が濁流のように日々タイムラインを駆け抜けていくため、ある程度の遮断は精神衛生上欠かせません表現の自由を最大限認めるのであれば、遮断の自由もまた最大限認める必要があります
もっとも、そのエコーチェンバーはミュートとブロックによって形成されやすくなっているのですが…

NIMBYを回避するために

SNS時代によって、NIMBYは加速することでしょう。そんなNIMBYを回避するためには、本音と建前を一人の人間が両方発言することが必要です

「児童相談所は必要だと思うけど、でも嫌!」と堂々と言ってしまうことです。

矛盾は解決させることで、より良い打開策に止揚する可能性を秘めています。

「児童相談所は必要とされてるのに印象が悪いのは何故なのか?もしかしたら児童虐待や問題のある教育と結びつけて考えられてるのかもしれない!→児童相談所そのものの誤解を解き、今より一層教育や虐待の問題の解決を目指していこう。この運動を地域住民にもわかってもらおう」という具合です。

SNS時代だからこそ、発言は誰でも簡単に行うことが出来ます。一般の声で、本音と建前を両方とも発信して、議論を拡大させていくべきです。

ちなみに

私自身、自分と異なる意見を発するのを見るのは苦手です。だからこの記事は自戒の意味もあります。しかしこんなふうに自戒を述べることも、この記事で書いたNIMBYを無くしていく一環だと思っています。自己正当化が済んだところで、本記事を締めたいと思います。

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