精神論が通用した昭和、通用しない平成・令和

体育会系的な精神論、根性で何とかする、という考え方は今の時代では推奨よりは非難されることが当たり前のようになってきました。しかし、かつては言うまでもなく世間一般で当然とされてきた思想であり、むしろ賞賛さえされていました。

かつての日本は戦後の生めよ育てよの考えからベビーブームが生まれ、その世代が団塊の世代として学校や企業の在り方に大きな影響を及ぼしました。

この団塊の世代が登場したことにより、多くの人数の中から激しい競争を経て、少数のトップクラスを作り出して物事を進めていく、というモデルが出てきました。

その競争の過程においては、一人一人の特性や適性を見極めてそれぞれに合った育成計画を立てる、ということはむしろ非効率です。大まかに言うと多産多死の時代において、一人ずつ丁寧にフォローしていくのは無駄ではないですが非常に効率が悪いシステムとなってしまいます。そういう時代においては、とにかく一元的な選抜方法を厳しく適用して、その中で勝ち上がってきた少数を選び出す、というやり方が適しています。

逆に、少子高齢社会を迎えた今の日本のように、少ない人数を出来るだけ脱落者を出さずに将来のそのシステムを支える人を育てていくためには、厳しく一方的な選抜方法は逆効果です。一人一人丁寧に育て上げないと、最終的に人数が不足してしまう可能性があります。少産少死では精神論ではなく、論理的に効率よく選抜・育成するシステムが無いといけないわけです。

昭和の時代は無理や無茶を精神論で乗り越えてきた時代でした。もちろん論理的・論理性が無かったわけではありません。「人事を尽くして天命を待つ」という言葉にあるように、やるべきことを全てやった後、最後の最後で差が付くのが精神や根性のところです。やるべきことをやる前にすぐに精神論を持ち出して根性のあるなしで結論づけてしまうのは、それこそ怠慢でしょう。

現代人、特に若い世代はその辺は敏感に感じているのかも知れません。非論理的な精神論ではなく、なぜこれが必要なのかということを理解することが若者を動かすのに必要なことでしょう。

昭和の世代にしてみたら、自分たちが育てられた多産多死の中では通用したシステムが、少産少死の中では通用しないという現実に直面したときに、
「最近の若い者は・・・」
といって嘆いたり批判したりしてしまうかも知れませんが、それはまさに
「人事を尽くして天命を待つ」
ところまで突き詰めていない考え方です。

精神論は物事を始めるに当たり先発隊ではなく最後の砦です。まずは、現代に合わせたシステムで動かしていかないと、世代間ギャップは埋まらないですし、世代間対立が強くなってしまいます。

それを若い世代に理解しろ、というのも無理な話です。それこそ過去を経験しているかどうか、ということは年配者の長所であるべき話です。過去の経験と現代の違いを比較した上で、現代に最も適したモデルを提示して説明すべきです。

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