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英語教育における英文法教育と英会話教育の分離

日本の英語教育が批判されているのは数十年間ずっとだと思いますが、批判される一番良くあるパターンは、文法にこだわりすぎる、という点です。

ではなぜ文法にこだわりすぎるかというと、明治期に英語教育が始まったときに、英語を教育のためというよりも、英語で書かれた文献を読み解いて欧米列強に追いつけ追い越せ、富国強兵のため、英語を学んでいたからです。また、当然のことながら日常的に英語を話せる人がいない中での教育のため、英会話、ヒアリング、スピーキングなどは出来ず、文法書と辞書中心の勉強となりました。

じゃあなぜ英文法中心の教育、学習は行き詰まらずに現代まで残ったのかというと、明治時代においては教える方も学ぶ方も勉強といえば漢学であり、漢文の読み下しは英語を学ぶ前から身につけていたものであったので、文献を読み解くために四苦八苦する、というのは自然なことだったのでしょう。

もちろん、それだけが原因というわけでもないかもしれませんが、その後の英語教育において文法中心になってしまった理由としては分からなくはありません。では、今後の英語教育では文法を捨てて英会話中心になるべきだ、とまで主張すべきでしょうか?

個人的には、少なくとも大学入試とそれにつながる高校での英語教育においては、やはり文法・読解・和文英訳の勉強は必要だと思います。

英語文法、長文読解、英作文は、英語での論文を読み書きするのに直結する勉強なので、大学入試で課されるのは当たり前ではないでしょうか。研究においてはほとんどの分野において、進めば進むほど英語の論文を読んで英語の論文を書く必要性が高まります。

また、今後もしかしたら一般人でも必要になってくるかも知れないプログラミングにおいても、英語で書かれたホームページ、ブログ、掲示板、マニュアルなどを読んで理解するという工程が出てきます。日本語に訳してくれる人を待っていては日が暮れます。

英会話・話すこと・聞くことももちろん大事なのですが、そもそも、英会話を学校で教える必要があるんでしょうか?

英会話はむしろコミュニケーションであり、勉強よりも生活の一部に属するものではないでしょうか?

コミュニケーションは学校で学ぶよりも、家族、友人、その他社会生活において少しずつ学んでいくもののはずです。もちろん、学校でも会話や遊びなどを通じて学びますが、勉強としてではありません。日本語だろうと英語だろうと同じです。

ただ、学校でもコミュニケーションのやり方を効率的に教えるということはあってもいいでしょう。そこにおいて、英語でも日本語でも対話を通じて自分の考えを伝える、相手の考えを汲み取る、議論を行う、といった作業に慣れ親しんでおく、という考えでなら、学校における英会話教育ももっと面白いものになるのではないでしょうか。

完璧な英語を話す必要はありませんし、グローバル社会において英語ネイティブの人と英語で話すよりも、英語が母語ではない人と英語で話すことの方が多いかも知れません。今後ますます英語の重要性は増していきます。ジム・ロジャーズのように、中国語(マンダリン)・韓国語が重要だと言う人もいますが日本以上のペースで少子高齢化が進んで話者が減る言語が本当に重要なのか私には分かりません。とりあえず第二言語としての英語の必要性はまだまだ当面は変わらないでしょう。


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