見出し画像

いのちのうみ(2,032字)

「ヤドカリさん、あなた本当に明日、海が明るくなる前にお引越しなさるの?」
「もう何年もそちらのお宅にお住まいだったでしょう。私たち、あなたとはきょうだいのように親しく過ごしていたからとても寂しいわ」
 イソギンチャクの姉妹が、薄らと開けた隙間からあぶくをぷかぷかさせてそう言った。身支度をしていたヤドカリは、すっかり家の中に収まりきらなくなってしまった窮屈な体を動かし、軽く感じる背中の貝殻を持ち上げるとイソギンチャクの姉妹に向き合う。
「いやお嬢さんがた、こちらのお宅での暮らしは大変愉快なものでした。隣人のいる暮らしはこれまで経験がなかったものでご迷惑もおかけしたかと存じますが、本当にたくさんお世話になりまして、感謝しております」
「そう改まってご挨拶いただくと恐縮してしまいますわ。私たちこそあなたのお話してくださる、見たこともない遠くの海のお話がいつも楽しみでしたのよ」
「確かに、海の世界は果てしなく広いのだと教えてくれたのはあなた様でしたわね。いつか私たちも、もっと違う海の顔を見ることができたらいいのですけれど。ねえ、お姉さま」
「私たちには自由に動く脚がありませんものね。羨ましいですわ、どこへでも行くことができるというのは」
 細くしなやかな触手がゆるやかに揺れた。淡く橙色にきらめくそれらを見つめながら、ヤドカリはこの美しく温かな姉妹と離れて生活することをひどく心細いことのように思うのだった。
 幼い頃、自分が生き物として産み落とされた事実に気がついたときには親もきょうだいもいない、真っ暗な海の中を漂っていた。帰る家など、はじめからなかった。海に揉まれ、抗うこともできずただ流されながら、親に寄り添って海流で遊ぶカメの子どもや、家に帰っていく小さな魚たちを羨望の眼差しで見つめる日々を過ごした。
 ようやく流れ着いた先で見つけた空き家に住み着いてみると、すぐそばの岩にはイソギンチャクの姉妹が住んでいたのだった。
「ねえヤドカリさん。どうか、また会いにきてくださると嬉しいですわ」
「そうですわね。新しいお家の感想も聞きたいですし、ぜひ遊びにいらしてくださいな。これからも私と妹はこの岩場にふたりで暮らしておりますから、きっとまた会えますわ」
 穏やかにとろりと体を傾け、寄り添う彼女たちはいつのまにか成熟したイソギンチャクとなっていた。出会ったとき、ヤドカリは幼かった。イソギンチャクの姉妹もまた、幼い姉妹であった。
 いく年もの月日が経ち、かつて選んだ貝殻はとてもとても大きい家だったが、今ではヤドカリの体にぴったりとぶつかるようになってしまった。
 明日の明け方には、この地から発つことを決めていた。姉妹が眠っている間に行ってしまおうと、決めていた。
 自分の体の大きさよりもずっと大きな、新しくて正しいかたちの家を探し、掃除して引っ越す。簡単なことだ。それだけのことだ。もっと前に選ぶこともできた引っ越しを、どうしても決めることができなかった。
 脚を岩場に捕らえられている彼女たちの喜ぶ声を聞きたくて、毎日遠くまで海を歩いた。海藻をつつき、たくさんの生き物と出会って、広い広い海の話を聞き集めた。どこまでも歩いていける脚を持ちながら、必ず彼女たちの住む岩場まで歩いて戻った。
 イソギンチャクの姉妹との暮らしを、ヤドカリは心から愛していたのだった。
「イソギンチャクさん。こうしてあなたがたとお話していると、つくづく、僕はヤドカリでよかったと思うのです」
「まあ、どうして?」
 ふざけて聞き返す妹をよそに、姉のイソギンチャクはふよふよと伸ばしていた触手の動きを止めた。ヤドカリの真剣な声色に、一言一句を聞き漏らすまいとしているようであった。
「僕は、家を宿とし、その空き家を借りていることでヤドカリと呼ばれますが、たとえばイエナシとか、カイグラシとか、そう言った名前であればまた違った暮らしかたをせねばいけなかったのではないかと思います」
「名前が違えば、ですか?」
「ええ。僕はヤドカリで、あなたがたがイソギンチャクだった。名前が違えばあなたがたにはきっと脚があって、僕にもまた、どこかに家や家族があったのでしょう」
 難しい話に混乱している妹のイソギンチャクを触手でつつき、姉のイソギンチャクが言葉をつむいだ。
「私たちも、ヤドカリさんがヤドカリさんでよかったと思っていますわ。イエナシさんだったら、きっと私たちは出会うこともなかったのでしょう。名前が違っても、私たちはおともだちで、同じ海で暮らした家族ですわ。ヤドカリさんに出会えてよかった」
「こちらこそ、イソギンチャクさんたちに出会えて本当によかった。これからもどうか、お元気で」
「ええ。たまには帰ってきてくださいね」
 僕は、ヤドカリでよかった。
 その言葉を噛み締めながら、ヤドカリはイソギンチャクの姉妹と寄り添って眠るのだった。
 話し声がやみ、ひっそりと静かになった海の中で、月明かりが柔らかにあぶくを照らしていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?