『ミッド・サマー』の病理。私たちはこの映画の何にモヤッとしてしまうのか?
注)ネタバレ解説記事ではありませんが、論考上、ネタバレ的要素が60%ほどあります。
少し前、やっとアリ・アスター監督の『ミッド・サマー』を観た。予告で気になっていたが、コロナのゴタゴタで見逃してしまったので。
そういえばこの映画、公開前から鳴り物入りで、日本公開するのしないの、2バージョンあるだのないだの、映画自体もゴタゴタしていた記憶がある。
少なくとも私は、北欧カワイイ仕立ての「アメリカンホラームービー」を想像していたのだが。ちょっと違った。心理ホラーの予感は最初からしていたが、本質は恋愛映画だったらしい。なんだか「人を食った」という形容詞がぴったりの、違和感のある映画だった。それでも登場人物の心理的解像度が細かく描かれており、思い出しては考え、思い出しては考え…止まらない。
なぜ考え続けてしまうのか。
この映画が「おもしろかった」から?
実は最初はそう思っていて、だからこそ、ここに記事を書いた。
でも最近、月1ペースで深夜にこっそり行っている親友Kとのオンライン飲み会で『ミッド・サマー』の話題になり、これがそうとう白熱した。そして確信した。「うん、やっぱり違うな」
そしてこの記事を「作品の心理的意味を解説するネタバレ度60パーセント記事」から「心理は凄いが、よくよく考えたらこれってどうなの映画記事」にリライトしようと思った。
少なくとも、映画の公開の仕方に関してひとつの問題提起をしなければいけないと思ったからだ。
本来、私と(入れていいなら親友も)はこういう世界は大好物である。私達は(もう「私達」といっている。ごめんなさい)こういう耽美的で、エログロな美意識を追求した映画に、問答無用でもたれかかって酔いしれるのが好きだ。それなのに先日は、この完全無欠の耽美ホラーに、かなりの時間を割いて全力でツッコミまくってしまった。確かにこれ以上ないほど映像は美しかった。心理描写もよい。なのにこの映画に対する「感じ悪さ」がどうしてもぬぐえなかったのは、親友も同じだったのだ。
理由はいくつかある。
異文化理解や、その土地独自の文化を理解し受容する必要があるのはわかるが、あまりにも「猟奇的かつ衝撃的イメージ」は本当の異文化理解というよりも「おどろおどろしく紹介」しているだけなのではないか、ということ。
主人公ダニーの恋人であるクリスチャン(この名前がまた、コミュニティーが敵視している「キリスト教社会」の象徴になっているのだが)が、なぜあそこまでご都合主義的に動かされるのか、など。
しかし私たちが「感じワル・・・」と思ってしまった大きな理由は「本質は恋愛心理映画だということを、あえて隠されたから」ということににあるのかもしれないと思ったのだ。
例えば、新しく知り合った友人がいるとしょう。恋人でもいい。その人が、自分の本当の姿を「わざと」隠して近づいてきたら私たちはどう思うだろうか?その人物は確かに魅力的かもしれないし、面白い経験をさせてくれるかもしれない。しかしある日突然意外なことを告げられる。「ずっと言わなかったんだけど、実は僕、ある宗教団体に入っていてね、これがすごくいいんだ」あるいは「実はさ、ボク既婚者なんだ」
「をい!!!」となるのは必至なのでは?
『ミッド・サマー』のあらすじ
一応、途中までのあらすじを書いておく。
心理学を専攻する女子大生ダニー。彼女は、双極性障害を患う妹を何くれとなく心配する毎日を送っている。そのため常に精神が不安定で、抗不安薬が手放せない。その妹がついに両親とともに無理心中をしたことで彼女の心の傷はさらに深くなり、PTSDに苦しめられていた。しかしダニーの恋人のクリスチャンには重い女だと密かに疎まれていた。クリスチャン自身も、大学の友人たちから「彼女はメンヘラだよ」と諭されつつも、何となく別れを切り出せないまま、ずるずると付き合い続けていた。
夏の休暇、クリスチャンと友人3人は、その仲間の1人であるペレの郷里である、スウェーデンのホルガ村という、同じ思想で共同生活をする「コミュニティ」に行く計画を立てる。ここで催される「90年に一度の夏至祭り」に興味をそそられたからだ。大学生である彼らの専門は、異民族や異文化を研究する「文化人類学」。論文の研究のため(と、密かに北欧美女をナンパしたいという目的のため)彼らは祭りに参加することにしたのだ。クリスチャンは、ダニーには一緒に来てほしくはなかったが、彼女は捨てられたくない一心で、この男たちの中に加わることにした。
スウェーデン。ホルガ村。
そこは緑あふれる牧歌的な共同体だった。
金髪の髪と、抜けるような白い肌の北欧美女。
そして老若男女、揃いの白い装束。
ダニーたちは歓迎を受け、神秘的な夏の儀式はいよいよ始まった。
しかし、そこで繰り広げられた光景は、現代社会からの「来客」たちには、およそ受け入れがたいものだった。独特の自然観と死生観を「自らの文化」だという村民たちだが、とにかく何といっても「血なまぐさい」。猟奇的なシーンを目の当たりにし「来客」は恐怖に震えあがった。しかしそれでも儀式は1日、また1日と進んでいく。白夜のもとで、時間の経過すら忘れていくダニーたち。逃げ出したいと思った時には、時すでに遅しであった。
香りはホラーで味はラブストーリー?
冒頭でも触れたが、当初予告編を観た時、この映画を完全に「アメリカンサイコな、ホラームービー」だと思っていた。そう思って観に行った方も実際多いのではないだろうか?
白い衣装と花畑。一見、可愛らしげなホラー。そして「ギャー!ワー!」の阿鼻叫喚の世界。女の子が喜びそう。男の子は女の子に怖がられてデレっとなりそう。デートには最高かも?
加えてエログロ耽美を愛する私達からしてもヨダレものかもしれない。しかしあくまでこれは「ホラー映画」なんだ。そう思って観たけれど・・・
映画が進むにつれて、食した料理の味が想像とは違ったような、視覚と味覚がズレた時のような、奇妙な感覚に襲われたのではないだろうか?何か違くね?と。
きっとどこかでダニー達は結託し協力しあって、この村を脱出するだろうと思った。村人たちはそれを阻み、追ってくるはずだ。人類学、心理学を専攻する学生たちは、その知識を駆使して村民に立ち向かうだろう。ホラー的な脅かしとバトル、そしてクライマックスへ!最後に心を病んでいたダニーは自分に勝利し、メンタルの安定と強い自我を手に入れるのだろうと・・・違った。
思いっきり、違った。
アメリカ映画がお得意とするチームワークは、ここでは全く発揮されない。共同体の思想にどっぷり浸かったペレ、人類学の知識は豊富にあるが他者に無関心なジョジュ、そして何でもセクシーなものに結び付けてしまうマーク。仲間の結束なんて、そんなものはそもそも幻想だと言わんばかりなのがこの映画の不気味なところである。彼らの学問は映画の中では何の役にも立たない。そこには、感情や好奇心に勝てず、ずるずると状況に飲まれ続ける極限の心理状態が、執拗に繰り広げられるのだ。
だって映画で追いたいのは、ひとつの恋愛を諦める主人公ダニーの「変わっていく姿」だったのだから。
むしろ本当にホラーなのは・・・
まあ、そのあたりの「予告と内容に若干の誤差がございます感」はいいとしよう。「裏切られた!」とかは思わない。そもそもアメリカンホラーだと勝手期待されても・・・って感じだろう。
それよりも、この映画にモヤモヤするのは、公開の仕方だと思った。予告と内容このズレ、ここに上乗せするかのように、ほぼ同時に2パターンが同時上映されるという謎のコンセプトのもと公開されたことだ。最初に公開したのは147分のオリジナル版、続いて「完全版」として23分のカット部分を加え170分の「完全版」の公開。
え、なんのために?
完全版で補足されるのは「恋愛映画寄り」の側面である。ダニーがクリスチャンに最後の「判決」を下すに至る心理過程を、23分追加された完全版では、より詳しく追っていくことができる。
問題はそこである。
この映画を「ホラー仕立てのラブストーリー」だと最初から銘打ったら、ここまで話題になっていただろうか、ということなのだ。
ネットの中には、クリスチャンサイドから見ればホラーだが、ダニーサイドから見れば恋愛映画なのだと、だから「深い!」と、そのような評もちらほら見受けられた。それもまた納得のいく考察だと思う。しかしこれは観客が意味を見い出さんとしてくれた「親切な考察」であろう。
端的にいえば「ホラー性を前面に出したプロモーションでないと全国公開として売れない」というビジネス上の思惑が大きいということなのではないか。ただでさえ低迷気味の洋画業界。従来であれば、この映画はあきらかにミニシアター系映画愛好家がこっそり観に行って「だよねえ・・・」なんて一人でうなずきながら、劇場をあとにする系の映画なのである。
一説には、この映画を観たカップルは別れる、というジンクスも面白半分に囁かれていたそうだ。それもまた深い考察である。女性側がこの映画の「恋愛映画」としての本質を見抜き、主人公ダニーに共振してしまえば、こういう結末が起こってしかるべきで、そこもまた恋愛映画としての真骨頂だ。カワイイ系ホラーというのは、実は結構なお門違いなのかもしれない。
プロモーションやコンセプトに関して、実際の事情はわからない。
しかし。やはり変だと思わないか?
なぜ私たちは、同じ映画を時間差もなく、わざわざ「2回も」観させられるような仕組みに巻き込まれてしまっているのだろう?
「わからなかった部分が気になって、結局2回観ちゃいました~」
とか言うそこのあなた、まんまと3600円(つまり2回分)も支払ったってことですよね?
こうした公開の仕方自体が、すでにホラーなのではないか?
そしてそこが、この映画に「あえて本性を隠したあざとさ」を・・・いや、あざとさ以上のモヤモヤを感じえずにはいられないところなのだ。騙された、というのは何も内容ではない。お金の問題でもあるのだ。それは、予想を超えてきた、意外だった、興味深かった、という「おもしろさ」とは別次元の話だ。
「これらを総じて、やはりいい映画とはいえない」
深夜、ハイボールとワイン片手に、私達はそう議論を落ち着かせた。
みなさんがこれをどう考えるかはさまざまだろう。しかし個人的には、あまりこの手の公開の仕方を映画ビジネスの常套手段にすべきではないなあと考えている。
同じものを面白くて2回以上観た、という意味とは違うからだ。
私はモーツァルトを斬新なキャラクターで描いた映画『アマデウス』をおそらく100回以上は観ている(部分的にであれば数百回だろう)。ほかにも、トム・クルーズとブラッド・ピットの『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』は劇場で7回観ているし、親友もマイケル・ジャクソンの『THIS IS IT』を10回以上観に行ったという。
それは純粋に「完成形」が面白くてリピートしたかったから、もう1度、またもう一度と味わいたくなったからである。
『ミッド・サマー』にその力があるかどうかは観客が判断するにしても、だからこそ最初から「完全版」を公開すればよかったのに、と思ってしまうのだ。
とはいえ恋愛心理映画としては巧い。
ここまで「映画」の存在としての違和感を述べてしまったが、なるほど『ミッド・サマー』は、恋愛映画としてはものすごく心理が良く描けている。この映画は1組のカップルが「愛を諦めていく過程」を描いたものなのだ。
ここで少し恋愛心理映画としての側面を整理してみよう。
ダニー:生贄体質
一見すると自己中心的なメンヘラとして画面に登場したダニー。実は彼女は、典型的な「いい子」である。そしてそれゆえに「行った先でいつも生贄にされるタイプ」だ。間違いなく彼女は、子供の頃から不安定だった妹とそれを世話する両親の中で、一番の「聞き分けのよい子」だったはずだ。そしてそれぞれの間に入って言い分を聞き、調整し、なだめ、おだて、それが自己犠牲だという自覚もなく、家族のメンタルに振り回されてきた「家庭の中の生贄」だったのだろう。
ダニーは自分がない。
これが、彼女を根本から苦しめている「生きづらさ」の原因なのである。彼女は自我を奪われたアダルト・チルドレン的である。
ダニーのこの「自分のなさ」は、映画の随所で見られる。
彼女は恋人のクリスチャンに気を使って、自分の本当の気持ちを遠慮する。彼女は何を話しても、彼が少し困惑した素振りを見せると即座に考えを変え、自分の気持ちや意見を投げ出してしまうのだ。
ホルガ村に入った途端に勧められたドラッグも、彼女の中の何かがそれを止めたにもかかわらず(一度は断ってみた!)、場の空気を乱すと知るやあっさり諦める。
「いいの、やるわ。面倒はおこしたくない」
彼女は、相手に自分を合わせておけば平和なのだという間違った共感力を、即座に発動してしまう。そうでないと、彼女の育った家庭では収集がつかなかったからだ。しかし一歩家を出れば、そんな彼女を他者は「不安定(定まらない)な人」と判断してしまう。
しかしホルガ村では、彼女の自我のなさはそのまま肯定される。それどころかむしろ長所だ。ダニーはここにいれば孤独じゃないと感じた。彼女の傷ついた心は、ホルガ村でしだいに色彩を取り戻していった。
映画の冒頭では白一色だった村民達の装束が、日を追うごとにカラフルな花で埋め尽くされていく流れ、ダニー自身も、最後には紅白の小林幸子ばりに「花そのもの」になっていく(!)過程は、彼女の心象風景の象徴だ。
クリスチャン:言いなり体質
クリスチャンの愛情は、毛色の変わった愛である。少なくとも、決断力や積極性を男らしさと思う一般的な風潮からしてみれば、彼はどこまでも受動的であり優柔不断である。彼は断れない。しかしだからこそ、クリスチャンは恋人に「断る自由」を与えることができる優しさを持っているといえる。
クリスチャンは、当初はできるだけダニーの意志を尊重しようとしてくれている。そこは逆にクリスチャンの良さでもある。それは彼の優しさ、愛情の形なのだ。しかしダニーにはそれが伝わらないし、そもそも今の彼女には不必要な贈り物なのだ。
精神が弱っているダニーには、彼の与えてくれる愛、つまり自由や尊重は、むしろありがた迷惑な重荷なのある。ダニーはクリスチャンに頼りなさを、クリスチャンはダニーに自主性のなさを感じ、たがいに求めあいながら、相手から望むものを与えられないことにイライラしている。お互いが要らぬものを、相手に良かれと思って捧げ続けているからだ。それでいて、遠慮のし合いをするというチグハグなコンビなのである。
女性は男性のために髪を売って時計を買い、男性は女性のために鎖を売って櫛を買うが、贈り合ってみると、それはすでに相手にとって不要なものになっていた・・・そんな美しい童話があったが、彼らの気遣いもそれと似て痛々しく悲しい。
つまり彼らは似た者同士のカップルなのである。良く出れば果てしなく優しい相手になる。一般的な男女像とは若干ズレてはいるものの、むしろかけがえのないカップルになれる可能性もあったのである。(誕生日は、残念ながら自己申告しなくては祝ってもらえなそうだが)
案の定、彼らの繊細さは無残に食い荒らされる。ダニーは生き残るためにひたすら順応しようとし、クリスチャンは相変わらず断れないし、おかしな流れも止められない。結局お互いすれ違い、ダニーは激しく傷ついた。そして彼女はクリスチャンに「判決」を下す。しかしそれは皮肉にも、彼女がやっと何かを「自分で決めた」瞬間だったのだ。たとえ間違っていてもいい。
自分で決めるって、なんて気持ちいいの!!
そう叫ばんばかりの彼女の笑顔がそれを物語っている。
感情というものは、いつでも「自分」と「他人」を分断する。私の感情を、そっくりそのまま相手に味わわせて、わかってもらうことは永久に不可能だ。だからこそ辛い時、人は底なしの孤独感に閉じ込められるのだ。しかしホルガ村では、気のすむまで仲間が一緒になぞってくれる。その共感は心からのものか、ドラッグがそうさせるのかはわからないが。
確かに現代社会は「この感情は誰のものか?」にあまりにも厳しい。「自分の感情は外に出してはいけない」「自分の機嫌に責任を持て」
私たちは、他人に迷惑をかけないように、感情を自分だけで抱え込みながら、誰もが「自分だけの孤独のオリ」の中でもがきながら生きている。少しだけ分かち合えばものすごく楽になるのに、それができないのが現代だ。
だからこそ、ホルガ村はダニーにとって、セラピーの場だったのだ。たとえそこが「おおいに狂ってる」場だとしても。
最初にホルガ村にやって来たときの彼女は、胸の内に「コントロール不能のエイリアンのように、のたうち回る悲しみと苦悩」を飼っていた。それは急にうずき、暴れ出し、吐き気のように突如として胃から食道へと逆上し、口から逃げ出そうとする。ダニーは必死に口を閉じてこらえようとする。
何らかのPTSDを持つ方であれば、憶えがあるかもしれない、あの抑圧した独特の泣き方を。フラッシュバックが突然の吐き気のようにやってきて、今にも口から溢れ出しそうなのを必死でこらえ、這うようにトイレに駆け込み、吐くように泣くあの苦しさを。
だから「みんなで泣く」というグループセラピーのような悲しみを出し切ってすっきりとした彼女に、私たちは「なにはともあれよかった」と言いたくなるのだ。
でもやっぱりヤバいと思った。
だが。
だが・・・いかんせんこの村、やっぱヤバい。何かどこかがいつも怪しい。
私にはとてつもなく「カルト」っぽく見えてしまう。外の者に対して「うそっぽい」説明で煙にまいてしまうのが、この村のおかしなところだ。
ハレとケ(非日常と日常)の境界線として「祭祀」にドラッグを使うのは世界の文化としてもよくあるが、どうもこのホルガ村、「なんか都合が悪くなると」ドラッグでどうでもよくさせる集団らしい。裏切者を血祭にあげるやり方も猟奇的で「とにかく血なまぐさいものを異常に好む方々」であることには間違いない。
しかも観ている側に「90年に一度の夏至祭りとなんて、まず嘘だろうな」と勘づかれてしまっているところも面白い(それはいくつかのネタバレ記事にもいくつかあった)。
この村の寿命の考えでいけば、前回の夏至祭りの様子なんて、ほとんど誰も知らないはずである。それなのにあの見事な再現性は「ない」よなと。しかもペレの両親が炎で焼かれたという語り草が、この祭りでのことだとすると、前回が90年前というのも長すぎる。
ペレはダニーを「適合」と見抜き、追い打ちをかける。村の女たちも彼女の「順応」を悟り、積極的に村の一員にしようと囃し立てる。もしかしたら「メイポールの女王」に仕立て上げられたことだって、ダニーを喜ばせ、貴重な仲間(獲物?)に引き込むためだけの「八百長競争」であったかもしれないのに。
いうなれば、婚約した花嫁が、やれドレス選びだの、お料理選びだの、テーブルセット選びだのと、一時的に結婚式場でちやほやされるのと同じなのではないだろうか。私にも経験がある。あれは単純に気持ちがいい。(そこには何らかの見返り(料金)が潜んでいるんだけど)
おそらくこの村では、子供が18歳頃になると「布教・勧誘活動」のミッションとして外の世界へ留学させられるのではないだろうか?そして90年に一度(一般的な現代人の人生で「”一生に一度くらいじゃね?”という意味」)の祭りだと言って村に連れ込み、お仲間か、貴重だけど「罪深い精子提供者」に仕立て上げるシステムになっているのではないか。ここはやはり文化というよりもカルトの洗脳の常套手段なのである。
何もかもが「お粗末」だ。そしてそれが観ている側にもバレバレである。ツッコミどころ満載の、なかなか笑える設定なのである。
最後に、ダニーのこの先が思いやられるよねと、親友Kと思いを馳せた。
彼女この村を「本当の居場所」と思ったみたいだけど、本当に大丈夫なの?と。また何かに自分を預け、依存してしまうのではないかと。
そう彼女は、結局また「やらかして」しまったのではないだろうか。
一時の勝利(自律)宣言もつかの間、彼女はこの村の嘘くささをすぐに見抜くような気もする。まがりなりにも彼女は心理学専攻なのだ。
この村の「嘘くささ」をそれこそドラッグで回避し続けるか、自ら「志願」するか、また第3の道が生まれるのか。それは彼女の「自由」だということになるのだろうか。ダニーの身内はみな死んだ。誰も彼女を誰も探しはしないだろう。しかし本当にこれで良かったのか?
手出しできない私たちに残るのは、何ともいえない後味の悪さと苦笑いだ。うーん、ミニシアターで「ぽそぽそした気分で」観たかったなあ笑。
参考)100年前の『ミッドサマー』
最後に『ミッドサマー』的なものを求める方ならお好きであろう、こちらのバレエ作品を、映画の参考資料、「サブテキスト」としてご紹介する。
おそらく、この映画の「原型」を見い出すことができるだろう。
『春の祭典』
音楽:イーゴリ・ストラビンスキー
振り付け:ニジンスキー
初演:1923年5月29日パリ
バレエ・リュス(ロシアバレエ団)
https://www.youtube.com/watch?v=ke58bOaRe8w
初演はなんと約100年前だ。バレエといったら想像される、典雅で高貴なイメージからはほど遠く、前衛的な振り付けで初演時から大ブーイングを巻き起こした問題作だった。
バレエなのでセリフはないが、流れは『ミッド・サマー』と同じである。春の到来を喜び、踊る少女たち。その中から「生贄」が選ばれる。顔をこわばらせる生贄の少女。周りの者は猟奇的な喜びに悶えながら、さらに激しく踊り狂い、生贄の死を待つのである・・・
自分の内なる衝動に突き動かされるかのように、背中を丸め小刻みなジャンプを繰り返す奇妙な動きを、ぜひ観てもらいたいと思う。理性的な人間の別の一面、本能に突き動かされる「動物っぽさ(オスっぽさ、メスっぽさ)」に、胸がザワつくはずだ。
太古から続く文化のホラーな一面が荒っぽく表現されていて、衣装もどことなく似たテイストだ。今では傑作・名作といわれているニジンスキー版『春の祭典』。『ミッド・サマー』のサブテキストとして、是非ご覧いただきたい作品である。
毎日の労働から早く解放されて専業ライターでやっていけますように、是非サポートをお願いします。