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風(おと)と官能 【第5回】Let’s Play「ヒマをもてあました神々の遊び」!

変わった世界の眺め方しよう

10歳から小説を書くようになり16歳でエッセイで賞をいただいた。それから今日まで「自分の書いた文をどこかに披露すること」を細く長く続けているわけだが、そんな私が心の支えにする言葉、というか「スタンス」がある。

ある時、自分の書いた舞台脚本がコンペで選ばれ上演される運びとなった。地方のアマチュア役者と東京の舞台スタッフによる市の事業。大がかりな年間プロジェクトの中心人物に、いきなりなってしまったのだ。オーディションに混じってキャストを決め公演までの7か月、私はただぼんやりと稽古を眺めていればよいのだと思っていた。ところが!実際は半年以上も市民キャストにセリフが行きわたるよう作り直し、脚本を組み立て直し、加筆修正し続けることになった。

正直言うとこの公演は「ただ辛いだけ」だった。そのままでコンペ入ったんじゃないんかい!と叫びたくなるほどの不本意の連続。ようやく最後の1か月くらいになって作業が落ち着き、暗いトンネルの向こうに一筋の光が見えた。これでやっと終われる!その頃だ。いつも刺々しく修正を要求してくる演出家が言ってきた。

「さて、ここまで来たあなたには最後の仕事が残ってるよ」

「え。最後の仕事?」

「何だかわかる?」

最後の仕事というワードに、まったく心当たりがない。むしろ私は警戒した。さんざん無理な注文を言われたために、神経が反射的に波だった。

「いえ、直しとか?」

この半年、当初の世界観を守ろうと必死で修正を避けたがる私にピリついた口調で当たってきた若手男性演出家だが、いつになく穏やかだった。

「あなたの最後の仕事は本番の日、劇場の一番後ろの席に座って全てを見届けることだよ」

「はぁ・・・」

「何を見届けるかわかる?」

「何だろう、舞台の出来ですか」

「舞台なんか稽古でずっと見てきたじゃん笑。そうじゃなくて、あなたは一番後ろに座って客席を見るの。お客さんがどこで笑うか、どこで舞台にくぎ付けになるか、どこで退屈してるか。それを最後に一番後ろで見届ける。そこまで来てやっと、あなたは自分がしてきた仕事が何だったのかわかる」

「はい・・・」

「これは誰にも変わることができないたったひとつの場所、脚本家だけが経験できる境地なの。だからあなたは誇らしい気持ちで最後列に座っていいんだよ——今日まで本当に、お疲れ様でした」

答え合わせは予想外だった。
私が準備した笑いポイントで、観客はクスリともしない。「スベってるよ・・・(ことにすら気づかれないほどウケてない)」そのかわり、さして気にも留めていなかった場面がやたらと観客の胸を打ったり。不思議なものだ。

「うーん、わからんなあ・・・」

私は自分の作った世界を珍しい気持ちで眺めた。
この世には、全てから退いた最も外側からの「眺め」というものがあるのだと知った。ものを創る人間にとって演出家の言葉は、いまだに心に鮮やかだ。

人生も、ときどき我に返って遊んでみる

そういえば昔、いくつかの劇団と合同で飲み会をした時のこと。別のグループで役者をやっているという若い男の子と隣同士になり、酔った勢い(?)でこんなことを打ちあけてくれたことがあった。

「僕は悲しみたいから演劇をやっているんです。悲しみという感情が好きなんです」

なるほどね!それはそれはポジティブで前向きな「情の処理の仕方」だね!素直にそう思った。そうかといって彼は、本当に悲しい出来事を経験したいわけじゃないはずだ。つまりジェットコースターと同じ。演劇でなら安全な位置から悲しみを思う存分経験できる、ということなんだろう。何という奇抜な「人生の遊び方」してるんだこの人は。しかも演技はプレイという。

でも考えてみると、そう「奇抜」でもない。人は無意識に好きな感情を得られるように生きているのではないか。その感情を多く感じるための経験を選び取り、世界を自分なりに解釈して生きているのでは。

例えば「そこまでじゃないでしょ」と思うほど大袈裟に嘆き悲しんで同情を集めようとする悲劇のヒロインタイプとか。「誰もそんなこと思ってないって!」と何度言っても効果なし、私って可愛そうループでアピールし続ける被害妄想タイプ(どっちもメンヘラ)の行動説明も、これでつくわけだ。

痛み、苦しみ、寒さすら――
作り出しては時間をつぶす人間たちよ。
これが、かの有名な
「ヒマを持て余した神々の遊び」である。

これこそが、神様コントの核心だ。

好きなタイプの「お笑い」数々あれど、モンスターエンジンの「神さまコント」は凄い。もはや「おもしろい・おもしろくない」という範疇を超えて深すぎる。
「これは~真理である~」私も言ってみたい。

そう、人生に起こることの大半は
「私だ」と言ってスンと向き直ったら・・・
実は意外に大したことない。
あなたが!
あなたこそが!
自分の世界をドラマチックにしているのだ!
良くも悪くもね。

神々の遊びは批評のはじまり

人生だけじゃない。些細なことから大きなことまで、私たちは多かれ少なかれ、毎日没入したり我に返ったりを繰り返し、神々の遊びをやっている。カフェの窓から行き交う人をマンウォッチングしたり、サッカー観戦のスタジアムで、歓声の一人一人にもそれぞれ人生があるんだとふと気づいて、でも私たちは今日ここで贔屓のチームを応援するために集っているんだなあ、としみじみ思う。

そしてそれを意識的にするという「遊び」が芸術、アートだ。これこそ最上級の「神々の遊び」といっていい。舞台や映画を観に行って感情移入したからといって本当に悲しくなったり辛くなったりするわけではない。むしろ清々しい思いで帰路につき、さらに作り手の狙い「遊びのルール」にまで思いを馳せる。そしてスマホを取り出し「〇〇 考察」で検索を始める。

こういう時、私たちはいったい誰の目で、どこから世界を見つめているのだろうか。神々のいるところ、そこは何処なのか?この概念上の場所、それは「批評が生まれるところ」と私は言いたい。

批評を誹謗中傷や辛辣な言葉だと思っている人は多い。しかし本来の「批評」とは外から眺めることだと思う。だから受け手と送り手、お客さんと出演者やアーティスト、つまり「私とあなた」という2人っきりの世界では批評はうまくいかない。2人称の批評はベタ褒めかこき下ろしの2択になりがちなのだ。1人称だけの批評も「感想文」「私小説」に終始してしまう。

一方、送り手側も、舞台の上から見た風景だけでは絶対にわからない景色が客席にあることを知るべきだ。お客さんの反応は、顔や拍手よりも背中が物語っている。だから私は最後列に座らされたのだ。

私はいつも最後列に座る者でいたい。外で2者を眺める第3の役目になりたい。お客さんの気持ちも、作り手(プレイヤー)の気持ちも、両方まるごと理解したい。できれば双方の言い分をくみ取って相互理解の橋を懸けたい。その上で、さらに大きな視野で物語りたい。目の前に繰り広げられている演奏なり舞台なりを人間界の「現象」として見たとき、どんな意味や価値があるのか見出したい。そしてそれは、批評を超えてひとつの「創作物」になるはずだ。

私はきっといい神様になれる。なんたって「ヒマを持て余している」自覚があるからね。

最後に。先月、宣材写真っぽい写真を撮っていただいたんですよ…

もう必死!!!

写真撮影は、ほどんど自意識との戦いです笑。

え、神々の目線だと?
こっちはいっぱいいっぱいなんだからさ、
そんなのムリに決まってんじゃん!!
気づいたことあったら誰か言ってよ!!!
(そんなもんだろ?)

暇を持て余した神々の遊びに乾杯!

(おわり)

write / key visual design  越水 玲衣
Photo  だがしかしたかし(@dagashika_tks)

Rei Koshimizu
16歳で県の高校生小説賞、集英社『ロードショー』シネマエッセイ受賞。以来、主宰していた演劇ユニットや市民劇の脚本、エッセイ寄稿など「好きな世界を文章で表現・紹介する」活動をしている。新潟県出身・東京都在住。哲学科卒。ときどきタロット占い師。

(参考)
音楽で悲しくなることと、実生活で悲しくなることは同じ?違う?
音楽を聴いて「悲しくなる」ってどういうこと?
『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』源河 亨 
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