東京五輪に際して,思っている事を記してみる。

前からどうしようか悩んでいたのだけれども,折角の機会だから書き残しておこうと思う。
東京五輪について。
僕は,東京五輪に反対だ,という事について。
ただ,賛成の人や,開催を楽しみにしている人に,何か言いたい訳では無い。全く無い。楽しみたい人は楽しめば良い。人は人,私は私だから。
それから,コロナ禍下であろうが無かろうが,そもそも五輪に反対だという事。『今』辞めよう,ではなく,『そもそも』やらないで,だ。
そしてカネの話をしているが,具体的に幾らとか,そういうのは無い。従って,間違った認識の上に,僕が単なる感情論を言っているだけかもしれない。もしそうだったら,すみません。
最後に,これは先の震災含め,色々な災害に被災された皆さまの思いと,全然違うかもしれない。これについても,もしそうであれば,すみません。僕は,あくまでも僕から見た五輪政治について書いたつもりだが,その意図と違って伝わってしまったなら,申し訳ありません。

さて,では本題に。

当初この五輪は,復興五輪なんて言われていた。今となっては,もうそんな言葉の跡形すら残ってなさそうだけれども。
それはさておき,この『復興』って何だ?,と言うところ。
僕は,既に日本は全体主義的な復興よりも,個人の復興が優先されるまでに成熟し切った社会だと,思っている。
つまり,街が綺麗になって,生活が元通りになれば復興と言う人も居れば,亡くなった家族への想いが癒えるのを復興と言う人も居る。そして,その何方も尊重できる社会なはず。被災された人それぞれに,それぞれの復興があって良いはず。そしてそう出来るくらい,日本は成熟しているはずだ。だから御国が『復興しました』と五輪を使って喧伝するのはお門違い。それこそ人権無視。
人や社会の『成熟度』を全く考えずに,見てくれの復興なんかをネタにしてる政治家どもが,気持ち悪い。

まぁ未だに,新幹線をオラが地元に引っ張るのが,政治家さんの仕事だから,仕方ない。
ついでに地元って言えば,僕の知り合いが政治家やってるけれど,地元でない所で出馬・当選していて,それでも『地元○○の名物です,旨い!』とかSNSにアップしてるんだ。地元じゃないじゃん。そもそも選挙出るまで,そこに住んだことすら無いでしょ。
かつてある別の政治家さんが,我が地元に落下傘してきた時も,なんじゃろな〜と思ったけど,これって何なんだろね。せめて『地元』と言うのはやめた方が良い気がする。だって小池百合子は俺の地元で当選したけど,地元の政治家では全く無いし,むしろ地元なんて思ってほしく無いし。
こう言うのを見ると,日出る国ももう日没間際なんて思っちゃう。
しまった,完全に酔っ払いの酒場政治論になってる。

話が逸れたので戻す。
それから,もしホントに復興と,そして日本の今後の経済とかを考えるのならば,むしろオリンピックで使うカネの半分を被災地にカネで渡し,残りは国際貢献に使えば良い。恐らく国と都から出るのは,八千億とか九千億円だろう。
日本再生,なんて言葉もあった。けれど,しつこい様だがオリンピックを契機にするには,御国は成熟し過ぎている。公平な程々の幸せは,もう求められていないんだよ。

途上国でオリンピックやらせて,そこに多額の資金をぶち込んで,治安対策から施設建設,交通網の整備から何から何まで,カネ落として,技術も落として。
その国での話だけでは無い。一帯一路と称してカネで国を買いまくってる中国を止めるには,地味なODAとかだけでなく,もっと目立つ様にやる必要だってある。

オリンピックに綺麗事を並べても,もう遅い。金まみれ,利権まみれのダークイベントなんだ。でも,やる国にとっては,特に発展度が低ければ低い程,国威発揚になり,経済効果も出易い。だから,だったらそこにぶち込んで,その国での我が国のプレゼンスを上げれば良い。
わざわざ成熟した御国の中で大金使おうって,しかも使ったところで何も残らない。残るのは,やった事実と,やらせた実績だけだ。しかも,やる事が正しいとは限らない中。
コトには,すべき時,がある。64年の東京五輪は,正に『すべき時』だった。果たして今は?すべきで無い時に,すべきで無い事をすると,国も会社も崩れていく。これは歴史が証明している。
果たした2020/2021年は,日本にとって五輪開催すべき時なのか。それは,後の歴史が証明してくれる。

2021年7月18日記


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