SNSを辞めてみた。

23年9月に,TwitterとFaceBookを辞めた。
アカウント自体は残してあるし,FaceBookはメッセージを使うので,正確に辞めたと言えるのかは分からないけれど,携帯からアプリを消して,1ヶ月ちょっと,まったくアクセスしていない。
有りがちではあるけれど,TwitterとFaceBookを全く見なくなってどうなったのか,ちょっと書いてみようと思う。
それから,僕は前記の2つしかやっていなかったので,言ってみれば,SNS断ち,とも言えるのかも。

まず最初に言っておきたい事。それは,SNSを通じて知り合った人たち,そしてSNSが有ったからこそ再会できた人たち,こういう人たちが日々何をしているのか,何を思っているのか,それに触れられなくなったことは,非常に寂しい。また,そういう出会い・再会の機会を得ることができたのは,SNSの良いところだと思うし,感謝もしている。
だったらそれに限定して使えばいいじゃん,という話もあるのだが,それができれば苦労はしない。1,000円だけ,と決めてパチンコに行っても,1,000円で済む訳はない。一杯だけ,と居酒屋に行っても,本当に一杯で終わらせる道理はない。
従って,これからそれら(SNS)の閲覧について,例えば「下らない」という言葉が出たとしても,それは友人・知人たちの投稿は一切含まない。それをここでは前提とする旨,まずは断りを入れておく。

という事で,「今日から離れます」と遺書を残し,バサッとやった。
SNSに費やしていた時間は,当然他のことに振り替えられる訳だが,では僕の場合どういう時間に振り替わったのだろうか。
正直に言うと,よく分からない。
それらを見なくなったのだから,当然代わりに何かをやっているはずだし,きっと意識の高い方々であれば,「本をより読むようになった」「英単語を覚える時間が増えた」「ニュースサイトをより見るようになった」という話が出るであろうが,僕の場合,何に代わったのか,本当によく分からない。
多分,きっと何かをやっているのだと思う。
けれど,意識してそれらの時間を「何か」に振り替えてはいない。
恐らく,僕は「何か」を犠牲にして,それらを見る時間を作っていたのだと思う。その「何か」は何だか分からないけれど,多分,普段普通にしている事全般,なんだと思う。
つまり,「本来やるべき,すべきことに費やすはずの時間を削り,それらに注ぎ込んでいた」という事が起こっていたのではないか。

SNS断ちを薦める声は結構多い。他のことに時間を使えます,だから自己啓発にはSNSを辞めましょう,といった論調。
けれど僕はそうは思わない。まぁ結果としては同じかもしれないけれど,僕にとっては,「本来何かをしていた所に入り込んできたおじゃま虫を追い出して,本来の時間の使い方を取り戻しましょう」と言う感じだ。
その上で,何かをしたければ,時間を調整する作業になる。

それからもう一つ。「見なくて良いものを見なくなった」こと。
これは大きい。
SNSを眺めていると,勝手に選ばれて出てくる見たくもない情報がある(「オススメ」等という都合の良い言葉を充てがってはいるものの,本質的に邪魔である)。
それと合わせて,わざわざ自分から見に行かなくてもいいのに見に行ってしまう情報もある(「トレンド」等という都合の良い言葉を充てがってはいるものの,本質的に知らん奴が何やっているかなんてどうでもいい)。
邪魔であり,そしてどうでもいいのに,何で見てしまうのだろう?何で見させられてしまうのであろう?
それが中毒性だと言ってしまえばそれまでなのだが・・・。
一般的にこういうものは,悪い話の方が引き込まれやすいもので,言ってしまえば,悪ぐち,誹謗,中傷。群衆が一斉にネガティブなことを言っているのを目にすると,当然気持ちはどんよりする。でも,何故か見てしまう。
しかしでは何故,そんなものを見てしまうのか?
後世に,今がどんな時代なのかを残すために,あえて引き合いに出す。
みんなが「増税クソメガネ」と言っているのを見るのは楽しいのだ。

どうもこの一行で一気に品格が落ちた気がするが,まぁ良い。

という事で,見なくて良いものを見ないで済むようになったのは,これは大きい。精神的に気持ちが楽になる,という事はない。何故かと言えば,そもそもそんなものを見なければ,気持ちが暗くなることはないのだから。従って楽になるという現象も起こり得ない。けれど,暗くならないことは事実だ。

最後に,「時代に乗り遅れる」「速報性のある情報を取り逃がす」といった感じの懸念について。
最近は専ら情報は,そして流行はSNSからである。これは否定しない。
好きなラジオ番組の情報で,「詳しくは番組公式SNSを見て下さい」などと言われると,結構ガッカリする。
けれど,正直に言って,何の不便もない。
というか,毎日ちゃんと新聞を読んで,都度週刊SPAを読んでいれば,それで十分だ。できれば夕刊フジも読みたい。なので一度試したが,そこまで処理しきれなかった。
一時期,そうコロナ全盛の頃,兎に角情報を集めなければと思い,何でもかんでも見ていた時期があった。けれど,冷静に考えると,必要そうな情報を整理して伝えてくれるのが,新聞であり,情報誌だと気づいた。
「必要」ではなく,「必要そうな」と書いたのは,結局本当に正しくて,必要だったであろう情報は,後になって分かるものだから。けれど新聞雑誌は,「恐らく必要だったと後でなるであろう」情報を掲載してくれているわけで,それで十分だと悟るには,結構な時間を要したものだ。
もし何時,台湾有事,いやいや,日本有事が起こったときに,何でもかんでも情報を拾っていたら,脳みそがオーバーフローするし,嘘も真も一緒くたな中で何を信じ,何を頼るのか。そう考えると,どこかのタイミングで自分の情報ソースというものは整理して,時間をかけて自分なりに熟成させておくのは大切な気がする。

なんだか説教臭い話になってきたので,程々にしようと思うが,兎に角,SNSは辞めて良かった。
色々な考え方は有ると思うけれど,僕にとっては,「自分の中に入ってきたおじゃま虫を追い出して,本来の生活に戻った」事,そして,「人々が人々の悪口を言うのを見なくて済むようになった」事。これらが辞めてよかったこと。

ところで,では何故辞めたの?,という事にはここでは一切触れていない。なので,次は何故辞めたのか,について書いてみたいと思うが,何時になることやら。

2023年10月20日記

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