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DAY3.  ブルーインパルス

「12時40分から飛ぶらしいよ、ブルーインパルス」

 ベランダの掃き出し窓をがらりと開け、洗濯ものを干していた私に夫が言った。

「えー、どっち? どっちの方向?」

「たぶん、あっちかな」

「見えるかなぁ」

 ふたりで空を見やる。濃い青色をした夏空は、雲ひとつないとはいかずに、ところどころにわた雲が浮かんでいた。

 今日は東京オリンピックの開会式だ。夜8時からの式を前に、ブルーインパルスが空に五輪の輪を描くのだという。時間は当日の発表ということで、さっきまで気にして夫に聞いていたところだった。

「あの雲がなきゃ、見れたかもな」

「そういうもの? 飛行機って雲の下飛ぶんじゃないの?」

「いやいや、雲に隠れたら見えないよ」

 夫にそう言われて、そうか、確かに富士山も雲に隠れるし、飛行機に乗っていても雲の中をいくことはあるかと、なんとなく納得する。

 そもそもわが家は山手線内からは結構離れた東京の端っこだ。発表されていた飛行ルートにも外れていたから、見える可能性は薄いだろう。

「ねえ。もしかして、そこのひらけた川沿いまで歩いていったら、ちょっとは見えるんじゃない?」

「えー? どうかな……」

 また妻が変なことを言いだしたぞという顔をしながら、夫は言った。

「じゃあ、行くだけ行ってみる?」

「行く!!」

 雲があるとはいえ、こんなんで本当にオリンピックをやるのかという、気温34度にもなったこの日。私たちは近くに流れる川沿いへの散歩を予定したのだった。 



 2019年11月に中国湖北省武漢市で確認された「原因不明のウイルス性肺炎」から始まった、新型コロナウイルス感染症の世界的な大流行。

 この未曾有の事態は確実に世界の歴史に刻まれるだろうし、きっと私たち夫婦の間では、「これで最後」と臨んだ不妊治療の日々と一緒に思い出されることになるだろう。

 新型コロナのパニックは、結婚前の2011年の東日本大震災のときと同じくらい、私の思考回路に大きな変化を与えている気がする。

 1999年の大予言は大ハズレに終わったのに、こんな未曽有の事態を2回も経験する人生になるとは思いもしなかった。

 3・11を、私は直接経験したわけじゃない。東京に住んでいながら、たまたまひとり九州の博多に出張していたので、その揺れすら感じなかったのだ。東京もかなり揺れたらしい。家に帰ったら、食器棚からグラスが少しこぼれ落ちていた。

 そんな私でも、当時はあのうねるような世の中の流れに飲み込まれて、いろいろなことを考えさせられた。

 「自分だって明日死ぬかもしれない」というリアルな感覚は、仕事のしかたにも影響したと思う。いつ死ぬかもわからないのに、こんなに思いの合わない人と仕事をしている場合ではない、とか。とはいえ、フリーランスがそうぜいたくも言っていられないのだが。

 新型コロナからの影響は、それとはまた違うベクトルだ。やたらとエビデンスを重視するようになった。科学的リテラシーというやつである。

 不妊治療をしている身にとって、感染は致命的だ。陽性が出ればもちろん治療は受けられなくなるし、そこからいつ治療が再開できるのかもわからない。そんなに時間が残されていない私は、そこで確実にジ・エンドだろう。

 ならば感染対策をしなければと、SNS上でたくさんの医療関係者をフォローしまくっているうちに、だいぶ科学的リテラシーが培われたんじゃないかと思う。彼らの中でも言い合っていたりして、それぞれ違う考え方があるのもまた面白い。

 そもそも、今まさに高度不妊治療に取り組んでいる身としては、もう全面的に医師たちを信じるしかないのだ。パワースポットなぞに想いを託している場合ではない。

 特に現在通っている3つめの不妊治療クリニックは、最後の砦と言われているだけあって、これまでの2つと比べても格段に多くのエビデンスを提示してくる。

 いろいろなデータからはじき出された確率を数字で明確に示されるのも、それはそれでショックだが、逆に頼もしくもあった。

 初めての診察のときには、まず「余計なサプリメントを飲むな」と釘を刺された。

 特に美容関係のものなどは、ホルモンの数値に変な影響を与える恐れもあって、大した効果もないくせに治療に余計な混乱を招く、意訳するとそんな内容だ。

 それからは、クリニックで唯一推奨しているという「エレビット」を飲んでいる。妊婦に不可欠な葉酸だけでなく、ビタミンなどの体に必要な栄養素もまとまって入ったものだ。

 本当はそれだけ飲んで、あとは「きちんとした食生活を」ということになるのだが、そこはそんなに優等生でもいられない。

 結局私は、こっそりDHA・EPA、いわゆるフィッシュオイルのサプリメントと、アミノ酸を飲んでいる。どちらも食事でとれる範囲内のものだから、用量を守ればそんなに支障もないだろうと、一応は自分の中で正当化をしつつ。

 以前はスーパーフードだの、なんとかのお茶だのと、もっとエッジの効いたやつ、通常生活ならおよそ口にすることがないだろうものに手を出していた。それから比べたら、可愛いものだ。

 科学的リテラシーと言えば、新型コロナのワクチン問題もある。いろいろな話を見聞きした結果、私の結論は「打つ」一択だった。

 もちろんワクチンを打つリスクはゼロではないが、無防備で感染することのリスクと天秤にかければ自ずと答えは出た。

 ただ、問題はそのタイミングだ。夫はすでに1回目の接種を終えて、もうすぐ2回目を打つ。その日は、ちょうど私の次の検診日でもあった。

 不妊治療七年目にしての、初めて着床。夢にまで見た妊娠判定だったが、その先の赤ちゃんに出会えるまでの確率は「33.3%」だと宣告されている。

 次の検診は、その第一関門「胎嚢が見えるかどうか」の日だ。

 当日は昼前に夫とクリニックへ行き、午後に夫がワクチンを打ちにいく予定になっている。直前にひどくドキドキさせられて、夫がワクチンで変な副作用を起こしたりしなければいいけれど。

 私はと言えば、ワクチンを打つ順番が回ってくる直前に、まさかの着床でタイミングを逃した。

 現在のガイドラインでは妊娠中もワクチンを打てるのだが、「胎児の器官形成期を過ぎた妊娠12週目以降の接種が良いのでは」という産婦人科医の意見を見聞きしたので、ひとまずそれにのっておこうかと思っている。まだまだ先は長い。


 女の一生は、小児期から思春期を迎えたあと、性成熟期を経て、更年期、老年期に進むのだという。

 思春期のあと、更年期が来るまでの間が、性成熟期。「妊娠・出産に適した時期」にあたる。それって何歳なの?と調べたら、なんと18歳頃から40代前半までだそうだ。45歳まで入るらしい。

 そうすると、一応まだ自分もその中に入っているのかと思ったりもするけれど。単に閉経するまでの妊娠の可能性を言っているのだろうし、40歳を超えての出産が難しいのは重々承知している。

 最近、いろいろなところで「妊娠を考えているなら早めに計画したほうがいい」という医師たちの発信を目にするようになった。

 高齢出産をする著名人は多くても、実際はかなり難しいことなのだという彼らからの警告は、どれも胸に刺さる。

 でも、と思う。本当にそれは、認識の問題なんだろうか。

 35歳から不妊治療を始めた私は、もう42歳になってしまった。それでも、「20代のうちに産んでおけばよかった」という発想には、やっぱり至らない。

 20代の頃も、ずっと子どもは欲しかったけれど、子どもが欲しいからといって結婚できるわけでもなく、計画のしようがなかった。

 じゃあ、「若いうちに結婚出来たら、仕事が落ち着ていてからというのじゃなく、早くに産んでおいたほうがいい」という意味だろうか。それも違う気がする。

 確かに、目の前に仕事が山積みの時期に、「今妊娠したら大変なことになるかも」と思うのは確かだ。中には、「日本は国の保障が少ないから経済的に産めない」という人も、いるのかもしれない。

 けど、決定的なものはそうじゃないような気がする。人それぞれ、「産みたい」と思ったときが産むタイミングでしかないだろうと、やっぱり思うのだ。

 人生なんて、そうそう簡単に計画通りになんて進まない。そんなことを私のような女が言っても、いいわけじみて聞こえるだろうか。



「あっつい!」

「ヤバいね」

 12時40分になる少し前。私と夫は炎天下の川沿いを歩いた。まわりには、ブルーインパルスを見物しようとしているらしき人は見当たらない。

「誰もいないねぇ。やっぱ無理か―」

「たぶん方角的にあっちの丘側だから……もしかしたら、少しのぼっていったら見えるかもよ。行ってみる?」

「よし、行こう!」

 私は夫の提案にのって、急ぎ足で丘のほうに向かった。なんだか知らないけれど、わくわくしてくる。別にオリンピックを心待ちにしていたほうでもないのだけれど。

 思った以上の坂道が続いた。夫も歩いてのぼるのは初めての様子で、「こっちかな」「こっち行ってみるか」と、お互い汗だくになりながら歩く。

 やっと一番高そうなところへ出ると、少し開けた場所があった。素敵な広場でもなんでもなく、住宅街の中でもひときわ大きな家の広い敷地の庭越しに、ふたりで空を見上げる。

 もくもくとした雲が浮かんでいるほかは、何も見えない。

 それでもあきらめきれずに、じりじりとした炎天下の中、ふたり佇んだ。時計を見ると、もう終了予定時刻の12時55分をまわったところだ。

「やっぱ無理かぁ……」

 空に向かってつぶやく。そのときだった。

「あ!」

 夫が声を上げた。その視線の先を見ると、黒胡麻かくらい小さな5つの飛行物体が、健気に美しい隊形を組んで前進している。

「おお!」

 まさしくブルーインパルス。生まれて初めてその姿を前にした私の目の前で、彼らはきれいに旋回をし、まっすぐに5色の煙を出しながら飛び去っていった。

 たぶん、あれは基地への帰り道だったのだろう。大空に五輪を描く大役を終えたあとに、こんなところで煙まで出してくれるなんて気が利いている。

 夫と私は大興奮で、「本当に見れるなんて思ってなかった」と言い言いしながら坂道をくだった。

 汗だくだったのぼりの坂道では「この道をまた帰るんだからね?」と夫に念を押されていたが、その足取りはとても軽い。

 また川沿いを歩いて、帰途につく。クーラーのよく効いた家に戻ると、冷蔵庫に大事にしまっておいた「ガツン、とみかん」をふたりで食べた。

 もしかすると妊娠中は冷たいアイスもあまり食べてはいけないのかもしれないけれど。こうしてふたりで食べるアイスは、なぜだか格別なのである。

 どこまでも伸びていくブルーインパルスの5色の煙を思い出す。

 パワースポットとかゲン担ぎとか、全然信じてない今日この頃だけれど。これはちょっと幸先がいいんじゃないのと思うくらい、許してもらおう。

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