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DAY2.  33.3%の希望 


 腹の奥底のほうが、ズキリとした気がする。

 嘘だ。たぶん、いつもの思い違い。妊娠の可能性などまったくない、なんでもない日にもときどき起こってきた違和感。妊活であろうが、不妊治療であろうが、自分の子宮を常に気にしてしまう生活をしたことがある人なら、たぶん経験者は多い。

 不妊治療を始めて7年目となる今年、奇しくも大波乱の東京オリンピックが開かれようとしているその直前に、私は初めて着床に至った。

 治療を始める前は、どこからが妊娠成立かなんて考えたこともなかったけれど、卵子が精子と出会って受精しただけでは、妊娠とは言えない。もちろん受精に至るまでにも結構な奇跡が体の中で起きているのだが、さらにその先が重要になる。

 そもそも受精をするのは「子宮」の中ではなく、排卵するまで卵子が育つ「卵巣」と子宮とをつなぐ「卵管」という管の中。受精卵となったその卵は、細胞分裂をくり返しながら卵管を通って、子宮へと向かう。そうしてだいたい5日ほどで、受精卵は胚盤胞という状態にまで成長し、子宮の内膜に着床するのだという。

 「受精卵のベッド」とも呼ばれる子宮内膜。そこに着地し、しっかりと根を張ることを着床と呼ぶ。

 自分の腹の奥底で、めきめきと根を張っていく卵のイメージ。ちょっと怖い気もする。それが、いわゆる「着床痛」だ。

 「チクチクする」とか「お腹が重い」とか、いろんな言説がネット上にあふれているが、それは感じる人も感じない人もいて、医学的には立証されていない。というか、まったく根拠のないものらしい。

 この7年、いろんな俗説に踊らされてきた気がする。毎月、妊娠しているかもしれない時期に差しかかると、あらゆる「症状」が私を襲った。

 「いつもより胸が張る気がする」「おりものもなんか違う」「お腹が重い」「ちょっと気持ち悪いかも」「なんだかトイレが近いような……?」すべては生理が来ると同時に、幻のように消え去っていく。そのくり返しだ。

 こうしていざ着床してみると、なんのことはない。びっくりするぐらい体調に変化がないのだから、笑ってしまう。なるべく気にしないようにしてきたけれど、やっぱりあの俗説たちは何の根拠もなかったのだなと、改めて恨めしく思うのだった。


「33.3%ですね」

 目の前の医師が言う。机に広げた紙の線グラフ上のある地点を指差し、パソコンの画面を見やりながら。そこの数字の部分だけ、はっきりと明瞭に聞き取れた。

 この大きな不妊治療クリニックには、何人もの医師が在籍していた。それとは別に、培養士や看護士も多数在籍していて、お互いに顔を覚えるような感じではない。おそらく毎日千人近くが通う患者をまわさなければならないのだから、当然の配置だろう。

 今回の担当医師は、以前にも担当になったことがあった。母国語が日本語ではないと思うのだが、早口でまくしたてるので聞き落してしまうことが多い。おそらく人としてはサバサバしていて朗らかな、好い感じの女性なのだけれど。

「え?」

「ですから、あなたの年齢や体の状態、いろいろな数値から換算するとですね、ここなんです。着床して、赤ちゃんが生まれるまでの確率です」

「ん? えっと……」

「ここです、このポイントですね」

 指差されたグラフの地点を改めて見る。それがいったい何のグラフであるのかは、いまいちわかっていない。

「33.3%、ですか」

「そうです。このまま無事に育って、出産できる確率ですね」

「それは、結構難しいということなんでしょうか?」

「でも、42歳ですからね、このグラフだと、ここになるわけです」

「なるほど……。んんん? えっと、着床は、できたということなんですか?」

「え!? そうですよ、着床しました!」

 あはは、ごめんなさい。わからなかったですか?と相好を崩す医師を見て、混乱しながらもだんだん事態が把握できてくる。

「一応、妊娠をしたということですか?」

「そうですね、着床しましたから。次回は10日後に来てくださいね。そこで胎嚢ができているかどうかをチェックしますから」

 さくさくと進む説明に頭が追い付いていかない。なんだかよくわからないけれど、どうやら妊娠はできたらしい。でも、33.3%なんだそうだ。なんなんだ、その数値は。

 会計を待つ間に、駐車場で待機してくれている夫へLINEで報告をする。あまりわけのわかっていない思考のままで。

〈 まだパーセンテージ的には33.3%くらいらしいんだけど、着床したって 〉

〈〈 おお! 〉〉

〈 ホルモン補充?の薬は続けて、10日後にまた検査だって 〉

〈〈 すごーい! 〉〉

〈 すごいね! 〉

〈〈 んー。でもなんか、タケノコ的な 〉〉

〈 なに、タケノコって 〉

〈〈 また10日後までドキドキしないとじゃん。33.3%ってのがよくわからん 〉〉

〈 私もよくわかんないんだけど、年齢的にそういうもんなのかな? 〉

〈〈 なるほどー。とにかく、やったねー 〉〉

〈 10日後に胎嚢が見えればってことらしい。よく聞くよね、タイノウ 〉

〈〈 なるほどね。10日後、わりとすぐなようで先だな 〉〉

〈 ね。とりあえず、ストレスかけないようにしないと? この結果聞く直前が一番ストレスだったけど 〉

〈〈 まあ、とにかく第一段階クリアだね。おつかれさま! 〉〉

 帰りの道中、夫は「マタニティネームっていうものがあるらしい」と言い出し、「もったいぶり子にしてやる!」と、33.3%のタケノコ状態に悪態をついた。

 この7年、私のほうはいつの間にかどんどん不妊治療について詳しくなっているのに、夫のほうはそうでもない。ときどき意味が通じなくて、どこか他人事なんじゃないかと思ったりしていた。

 でも、今日は初めて「マタニティネーム」なんていうものを夫に聞いた。産まれるまでの赤ちゃんを呼ぶ通称のことらしい。

 よくよく考えてみれば、私がめきめきと知識を増やしてきたのは、着床までのことだけだ。あまりにその先が見えなくて、見ようとしてこなかった。むしろ、見ないようにしてきたのかもしれない。ましてや妊娠中のマタニティネームなんて、全然知らなかった。

 夫がそれをどこで知ったのかはわからないけれど。夫はちゃんと希望を持って、その先を見てきたのだろう。


『妊娠されたんですか。おめでとうございます!』

 電話口でそう言われて、そうか、今初めて人におめでとうを言われたなと思った。不妊治療のクリニックで指定されて通っている甲状腺の専門病院に、次の受診について相談の電話をしたときのことだった。

「あ、ああ、はい……」

 焦って、お礼もうまく言えない。おめでとうに無防備すぎた。クリニックのほうで言われる日も、いつか来るのだろうか。

 私自身、甲状腺に何か特別な異常があるわけではない。でも、調べてもらうと妊娠をするためには少し数値が悪いことがわかった。年齢を重ねるとそういう人は多いらしい。

 その数値を妊娠に向けて安定させるためだけに、チラーヂンという薬をもらって、ここ2年ほど飲み続けている。

「妊娠をあきらめたときには、どうすればいいですか?」

 一度、甲状腺の医師に尋ねたことがあった。その答えはごくシンプルで、そのまま飲むのを辞めていいという。

 最後の砦という触れ込みもある今の不妊治療専門クリニックに通っているのはここ2年ほどだが、通院を始めて半年も経たないうちに、まさかの新型コロナウイルス感染症のパンデミック、世界的な大流行が始まった。

 それを言い訳にして、何カ月か行くのを辞めたりしているから、正確には2年間ずっと治療を受けていたわけではない。でも、チラーヂンだけはずっと飲み続けている。心の中で「もうあきらめたほうがいいんじゃないか」と思うたびに、無駄に飲み続けているこの薬の存在が大きくなっていく。

 なにせ、毎朝起きがけに飲んで、1時間ほど食事をとってはいけないという薬だ。なんとなく朝食の時間を制約されるようで、急いでいる朝などはちょっとしたプレッシャーになった。

 それに、これを飲み始めて太った、ような気がしている。

 たまたま飲み始めた頃がダイエットに成功して痩せていたこともあり、それからこの2年間で8キロ、いや10キロ近く増えたのだった。

 実際はチラーヂンを飲んだからと言って太るものではないらしい。たぶん、人はちょうど40歳をすぎたあたりから代謝がぐっと落ちるんだろう。それに、不妊治療中はなんとなく、極端なダイエットもしにくい。ストレスもあると思う。もちろん、おやつ食べ過ぎ問題も。そんないろんな要素が重なった結果だ。

 それでも私は、「この薬をやめたら痩せられるかも」と頭のどこかで思っている。だから、無駄に飲み続けるのは、なんとなく。それもまたストレスになっているかもしれない。



 電話のあと、家でテレワークをしている夫のところへ邪魔しにいった。

「ねえ、今初めて『おめでとう』って言ってもらったよ」

「あはは。良かったじゃん」

「やっぱりこれ、おめでとうの状態なんだよね? タイノウ確認、まだだけど」

「おめでとうございます!」

「ありがとうございます……って、なんか他人事だな!」

 いそいそと、おめでとうありがとうの挨拶を交わして、笑いあう。平和だ。

 世の中は、コロナだ、東京オリンピックでパンデミックがと、テレビでも連日大騒ぎしているけれど。実はわが家では、それ以上に大きなニュースの真っただ中なのである。この平和は、いつまで続くのか。どうなるのか。

 33.3%って、なんなんだ。

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