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『逆資本論』は禁書になれるか

コミック『逆資本論』を読みました。著者は『中国嫁日記』でおなじみの井上純一さん。一昨日発売されたばかりの新著です。

井上さんといえば代表作は『中国嫁日記』なわけですが、MMTについて論じた『キミのお金はどこに消えるのか』もヒット作で、ぼくはこの流れで期待して本書を購入しました。しかも、予約して! 10年以上ないですよ、本を予約購入するなんて。

ただ、内容的には経済的な側面は思ったより控えめで、本書は局所的な「脱成長」という言葉への反論を行ないつつ、気候変動問題を背景にした社会変革の必要性を説くことが主題になっています。

はやめにもう1回読み直そうと思ってはいるのですが、一応ひととおり全部読んだうえでの感想としては、『逆資本論』というタイトルですが内容的には「反資本論」というわけでもなく「半」資本論という印象を受けました。人類の将来のため、手遅れになる前に、資本主義も共産主義も、使えるものは使おうという考えが語られます。

いい考えだと思います。

ぼくが書いてきたメタバース経済の記事も『キミ金』に刺激を受けて半分肯定・半分否定で書いていることがけっこうあるので、実は本書もそういった刺激を求めて購入しました。

ただ、今回はあまり重箱の隅をつつくようなことに意味がある本ではないんです。あまりにも意外、まったく想定外だったのですが、本書は気候変動問題を背景に、現状の日本政治の否定、選挙を飛び越えてデモ・革命の必要性まで語っているからです。

デモ(市民運動)の話は厳しいです。いろんな意味で厳しいです。井上さんにはかなりの覚悟を感じますし、捨て身だとすら思います。

でも、デモの話は難しい。いやダジャレになるから難しいんじゃなくてー!

デモの取材経験から

さて、ぼくは個人的にデモに参加したことはありませんが、取材したことはあります。まず、そもそもなぜデモが行なわれるか、やってどうなるのかを知らない人がほとんどでしょうから、そこから考えてみましょう。

①ニュースソースになる

1番の理由はこれ。きちんとしたメディアほど正確に事実のみを書こうとするので、記事になんの根拠もなく「多くの市民・国民が反対している」などとは書けません。ただの空想になりますからね。

ところが、デモがあれば「反対デモが開催された」という事実を書けるのです。デモがあったというだけでは賛否の大小までは書けませんが「時間を割いてまで強く反対する人たちがたくさんいる」という事実は強いメッセージになります。

②ビジュアルを作れる

デモが開催されることで、ニュースの素材として写真や映像などのビジュアル素材を使えるようになるのも利点です。声を拾うだけでは「絵」にしにくく、賛否の比率を示すようなグラフを作るためには、長い時間をかけて世論調査をしないといけませんからね。

②不満の声をあげる人を増やせる

ニュースになることと合わせてになりますが、遠く離れた地にいて同じ不満を持つ人の共感を呼び、声をあげる人を増やすことにつながる効果があります。新聞・TVはもともと「権力の監視」こそ本文と考える向きがあるので(近年は怪しいですけどね)、メディアに携わる人間も巻き込んでいるとも考えられます。

③行政へ声を届ける機会

よく政治的不満の声に対して「選挙で変えればいい」という反論がありますが、それで変えられるのは選挙のある立法府(議員)が主で、行政府(役人)は直接は変えられません。天皇にしても総理大臣にしても日本は国家元首を選挙で直接選べないので、大統領制の諸外国よりもデモの意義は大きいとすら言えます。

知事や市長など自治体の長は選挙で変えられますが、それでも「頭だけ変えても仕方ない」場合が多々あります。なんでもかんでもトップダウンで指示が降りてくるわけではないですからね。

その時々の内容にもよりますが、デモは省庁などに向けて行なわれるので行政に直接声を届けられます。

ぼくが以前取材したデモは霞が関の各省庁を回って政権への批判を訴えるものでしたが、ちょうど帰宅時間に開催されたそのデモを、仕事を終えて帰途に就く省庁の職員たちが意外と足をとめて聞いていました。

④少数派の大きさを示すことも大切

「民主主義」と「多数決」とイコールだと誤解している人が稀にいますが、多数派が少数派をないがしろにするのは民主主義とは異なります。できれば全会一致を目指し、そこまでできなくとも過半数を超えてできるだけ多数の賛成を得ることを主眼に、圧倒的安定多数を占める現在の与党でも法案を修正することなどが行なわれています。

これはメディアと同じで政治家、政党も、個別の「ある政策」について国民がどれだけ賛成または反対しているかはつかめないからです。メディアがいくら「悪法だ」などと記事を書いたところで実際に国民がどう思っているかはわかりませんからね。政治家としては、わざわざ次の選挙を不利にするようなことはしたくありません。

なので、「実はこんなに反対している人がいる」と示すことには意味があります。日本は投票率が低く、組織票が強くモノを言いますが、組織票というのは支持票とは違います。例えば自民党議員なら地元の企業社長など実力者を通じて「○○先生に票を入れろよ」と言ってもらって票固めをするわけですが、言われた社員個人は普段はそれに応じてたとしても強い不満があればいくらでも無視できます。ま、だから簡単には無視されない票として宗教票を欲したんですけどね。

⑤集団は制御できない

さて、このあたりから平和ではない話になってきます。

市民がデモを無力と考えるほど、権力サイドはデモを軽視していません。そのこと自体がデモの意義になります。

権力側がデモを好まない理由のひとつは、集団は制御できないことです。集団は理性を失いやすく、場合によっては暴動のようになることも考えられます。もちろん鎮圧は可能ですが、それをやると次回以降にエスカレートすることが考えられます。

ぼくら市民からすれば「暴力など違法行為をすれば捕まるだけ」と考えてしまいますが、権力側はそこまで楽観的ではありません。司法には限界があることはわかっていますし、怒りを個人に向けられたら防ぎようがない場合もあります。また、結果的に平和を維持できず治安が悪化することは政治家としては最大の恥ともいえます。

⑥内戦、代理戦争の兆しになる

強い対立が続いてデモが組織化されると、外国勢力に介入される場合があります。特に、「衝突」を繰り返してデモをする側に恐怖心を与え、武装の必要性を感じさせたらもう内戦まで一直線、という「おそれ」があります。日本でそこまでいくとはなかなか考えられませんが、権力サイドにしてみれば油断して無視するわけにはいかなくなります。あんな小さな日本共産党を、いつまでたっても恐れているのは不思議ではないのです。

短期間にデモが連続すると、規模が大きくなりやすく、そして大きくなれば暴動が起きやすくなる……というわけで、小さなデモであっても権力者に対して「国家転覆」の不安を感じさせることができます。

というわけで、ぼくらが普段感じているよりも「デモの呼びかけ」というのは重いものなのです。それを本書はやった。どこまでの覚悟があるのか、どう展開するかはわかりませんが、今後の展開を楽しみにできるというものです。

社会運動は「政治の話」からでいい

ただ、いきなりデモの必要性を説かれてもかなり心理的ハードルは高いです。外国では普通に行なわれていることですが、日本においてはその前段階の空白があまりにも広いのが気になります。

この気候変動問題に関わらず、まずはSNSで「政治的な話題」を忌避するのをやめるだけでもいいのではないでしょうか。日本はそこからです。

ぼくらの暮らしを、皆で、あるいはその代表者が良くしていこうというのが「政治」ですから、生活に関する話題のほとんどは「政治的」です。「消費増税いやだわ~」とか「市が公園をなくして住宅地にしていくの、どうなんだろ」などとどんどん言っていけばいいんです。あるいはそうした意見に「いいね」や「スキ」を付けるところからでも。まずは。

そもそも、本来「政治の話をしてはいけない」と言われるのは、仕事の場で社外の人などと会ったときの話です。例えばあなたが打ち合わせの合間の雑談で「○○党、最低ですよね」なんていうのは、「あなたが勤めている会社の意見」になるからダメということ。会社の代表としてそこにいるから、社の方針にそぐわないことは言ってはいけないということです。

そもそも「政治的な話をするな」ということほど「政治的」なこともないですしね。

巻末に

ところで本書の巻末には、刊行のためのクラウドファンディングに参加した方たちのお名前が掲載されているのですが、その中に"sikano_tu"というお名前があるのに気づきました。"sikano_tu"は昨年亡くなったサイエンスライター鹿野司さんのTwitterアカウントと同じ名称です。

鹿野さんは生前に井上さんのツイートをリツイートしたりもされていたし、財政に関する考えも近かったようなので、確認はできないのですがご本人なのではないかなと思います。

本書に書かれている気候変動問題について、鹿野さんのリアクションを拝見できていたら……と思うと、その一点がたいへん残念でなりません。

(おしまい)

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