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読書『オールザットウルトラ科学』

なんと非常識なぼくは長いもの巻かれるように心がけているので、なんだかよくわからないことであっても、ひとの真似をしてやってみることがあります。そして、真似をしてみて、後悔することも。

SNSの時代になって、ひとびとは有名人著名人の真似を始めました。誰かが亡くなれば「お悔やみを申し上げます」と。故人はもちろん、その親族に届くわけでもない、ぼくはその仕草がなんなのか理解ないけどまともな人たちのやることだからと真似をしてみて、そしてやめた。べつに世間の在り方に背を向けようと思ったわけではありませんよ、ただ理解が及ばなかっただけ。

そして先週。

漫画家のとり・みきさんのツイートで鹿野司さんの訃報を知った。自分に理解できる言葉で言えば、これは「たいへん残念」としか言いようがない。たいへんだ。

鹿野さんはすごく有名な人というほどではないけどそれなり知られた人物で、古いパソコン好きのオジサンたちには馴染みのある「サイエンスライター」です。ただ科学について記事を書く、というだけではなく『パトレイバー』の科学解説を書いていたり、映画『ガメラ2』などのSF考証などもしていました。つまりエンタメ分野に近い、科学の人。

ぼくが鹿野さんを知ったのは、昔のパソコン雑誌『ログイン』に鹿野さんが連載していたからで、それを愛読していました。連載のタイトルは『オールザットウルトラ科学』で、1巻しか出ていない単行本を今でも大切に持っています。そして、この機会に読み直すことに。

中学生で連載を読み始めたぼくが、科学に関心を持ち、SFを嗜み、科学的アプローチ(たとえば事実を確認するために実験を繰り返すとか)を大切に思うようになったのは、鹿野さんの連載が大きなきっかけのひとつでした。ぼくは、鹿野さんが書く「楽しめる科学の記事」に大きな影響を受けており、鹿野さんは、自分を形作る何人かのうちに間違いなく入る重要人物です。まさにSFによくあるように、もし鹿野さんがいない時間軸があったら、ぼくはずいぶん違う人格になっていたと思います。

ま、それについてくどくど話しても仕方ないので、「あとがき」から鹿野さんの言葉を一部引用します。

 多くの人たちは、どういうわけか年を取るにつれて、科学をコムツカシイ変わり者のための学問と思うようになります。あるいは知っておかないと取り残されてしまうかもしれない、コンプレックスの対象でしょうか。
 でも、それは不幸なことです。
 そして、真実でもないと思います。
 科学がコムツカシイと感じるようになる直接の原因は、おそらく教育にあるのでしょう。学校教育で扱う科学技術系のカリキュラムは、ほとんどはプロフェッショナル養成のためのもので、多くの人を辟易とさせてしまいます。
 しかし科学を楽しむだけなら、そんな訓練をする必要はさらさらありません。

 ぼくは科学の魅力とは、人の思考の奔放さ、無限の可能性を見せてくれることにあると思います。それは、単なる空想以上に豊かな内容を持っています。
 月に行きたいという夢は、それこそ人間が物語というものを考え出した頃から、世界中で繰り返し語り継がれてきました。こういった空想は自由闊達留まるところを知らないのですが、ある意味で単純で、少し味わえばすぐに飽きがくるようなものともいえます。
 しかし、現実に月に行こうと考えたとき、科学技術によってこの夢を実現しようとしたとき、その前にはさまざまな困難が立ち塞がります。
「月に至るにはロケットが必要である。ロケットをまっすぐ飛ばすにはどうしたらいいか。燃料はどうする。どんな軌道で飛ぶのだ。空気のない世界で、人を生かし続けるにはどうするか」……多くの人間が知恵を絞り、工夫を凝らすところに面白さがあります。そこには人間のドラマも生まれるでしょうし、奇跡のようなアイデアや、まったく新しい発見も生まれます。そして、このような科学・技術上の困難に取り組んでいく中で、それまでそんなところに疑問があったなどとは考えもしなかった領域に、まったく新しい、広々とした世界が広がっていたことに気がつくこともあります。ただの素朴な空想では思いもしなかった場所に、新しい豊穣な世界が開けるのです。
 科学・技術は、人間の知恵の広がり、想像力の豊かさ、開かれた可能性を見る、なによりの虫眼鏡です。ぼくはこれまで、そんなところに、心底魅力を感じてきました。
 そして、それはきっと、科学なんてコムツカシイという偏見の敷居さえ乗り越えれば、誰でも味わうことのできるものでしょう。
 この本は、そんな科学の、人間の思考の面白さを中心に描いたものです。
 ぼくのガイドで、みなさんがぼくと同じ面白さを感じてくれるなら、それはぼくにとってこのうえない幸せです。

本書の刊行は1990年7月。1984~1989年に書かれた21編が掲載されています。"コムツカシイこと"を言わず、科学に基づく未来を語るものが多いのですが、今回あらためて読み返してみるとすこし怖い気持ちになりました。

最後に本書を読んだのはおそらく30年前で、当時から見れば今は未来。その未来人たるぼくらから見て、今は「嫌科学」の時代です。特に日本は「嫌科学の国」になってしまいました。当時から懸念されていた問題は先送りにされ、「今は、言うほど未来ではない」と思わされます。

逆に言えば、本書は今でも科学や人々の社会に対して通用する「視座」を授けてくれます。インターネットの影も形もない時代に書かれたもので、使われている用語も今とは違うものが多いのですが、現在の状況に当てはめて考えられることが数多くあり、それがなかなかおもしろいのです。

ぼくは宗教には疎いのですが、これはきっと「聖書を読み解く感覚」に近いのだろうと思います。いやいや、別に鹿野さんを神だというわけではありませんよ。ただ、これを鹿野さんの記事風に言うならば……死海文書のごとき価値あるこの本を、これからは『しかの文書』と呼ぼう、と言わざるをえないのです。

「影響を受けたのは、そんなとこか!」と思われるかもしれませんが、実際やってみて、観測し、事実を認めるのが科学ですから仕方ありません。

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