2020年 4月9日「追いかけて来るスーツの話」
ここのところ、よく追いかけられる。
というのも、会社の帰り道に自転車を漕いで帰宅するわけなのだが、その道すがら後ろからダッシュで追いかけて来る奴がいるのだ。
ここ3ヶ月で4度程、だ。
わたしが会社から帰宅する頃にはもう真っ暗で、街灯もしっかりと灯っている。
大したことをしていなくとも、毎日毎日仕事をしていると、帰途はボーッとしてしまうものだ。
そんな具合で、その日もボンヤリとチャリンコを漕いでいたのだが、もうわたしの住処のマンションが遠目に見えてきた頃。
タッタッタッ。タッタッタッ。
背後からそんな音が聞こえた。
普段なら、まあランニングをしている人が後ろから来たのかなと思うくらいだろう。
しかし背後から聞こえる靴音は、硬さがあった。
ちょうど革靴で全力疾走するような。
わたしは肩の辺りから冷気が降りていくような感覚を覚え、慌ててチャリンコの上から振り向いた。
顔の見えない、スーツ姿で中背の男が腕をブンブン振って全力疾走してきたのだ。
明らかにわたしに向かって。
一も二もなくペダルを踏み込んだ。
尻も浮かせて力任せに漕いだ。
もう一度振り返るとスーツの男から距離は取ることが出来たが、男は依然全力のスプリンターだった。
追い付かれる。
わたしはまたペダルを踏み込んで、自宅を過ぎて人通りの多い駅前に向かった。
駅前に辿り着いた頃には、背後に全力疾走している男はもういなかった。
しかし変な動悸がなかなか止まらない。
わたしはしばらく駅前の灯りが沢山ついた人通りの多い所に身を置いた。
着ていた防寒着を脱いでチャリンコのカゴに入れ、しばらく辺りに目を凝らす。
とはいえ、いつまでもそうしてもいられないので、辺りを警戒しながら再び帰途に着いた。
街灯の疎らな暗くて広い通りが嫌に不気味だった。
あの角から出てこないか、あの隙間に居ないか。見えない暗闇は変な想像をさせるものだ。
結局、無事に自宅に着いたが、家の鍵を閉めるまでは背中に何かがぴったりとくっ付いているような気がして気持ちが悪かった。
わたしはそのことについて、通報することはなく、会社の同僚にも話すことはなかった。
大ごとにしたくないという気持ちがあったからだ。
しかし、おそらく同じスーツ姿の男にその後も都合3度夜道を追いかけられて不毛なチェイスを強いられる羽目になった。
3度目の襲撃ではわたしが気付くのがほんの少し遅れてあわや触れられる位の所まで接近された。
最悪、わたしであれば普段の資材運搬のお陰で衰えてはいない筋力と、元々筋肉質であることがあるので応戦できない事はない。
しかし、何も知らない人が不意を突かれたり、ましてや夜道を1人で歩く女性が狙われたりしたらひとたまりもない。
私は3度目の襲撃を受けた後、警察署に通報を入れた。
その後は追いかけて来る中背でスーツ姿の男には遭遇していないが、ジャケットを振り乱して、白のワイシャツをズボンからはみ出させながら追い縋る男の姿を思い出す度に一瞬震える。
何より、暗闇で少し下を向いていてどうしても顔が見えなかったのが何より恐ろしかった。
まったく、変な縁が繋がってしまったものだ。
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