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甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(3)

阿讃山地の南麓,吉野川の北岸の地は,神宅を含む阿波三盆糖の産地であるが,四国遍路発心の地でもある。第1番札所 霊山寺から第10番 十楽寺までは,かつての板野郡の道筋であり,とりわけ第5番 地蔵寺から第6番 安楽寺までは,神宅を過ぎゆく道のりである。

神宅出身の阿部賢一早大総長を退任した翌年,昭和44年(1969年)2月この地を道ゆく姿があった。

元全日本学生自治会総連合 中央執行委員長 唐牛健太郎(1937~1984年)と妻 真喜子である。

昭和12年(1937年)に函館 湯の川温泉の芸者を母とし,いわゆる庶子としての生い立ちを背負う。
長じて唐牛は,北海道大学在学中の昭和34年(1959年)ブント(共産主義者同盟)書記長 島成郎(1931~2000)の説得に応じて,全学連委員長に就任する。

唐牛といえば,60年安保闘争時の全学連委員長であるが,最大の激闘となった6月15日の国会前衝突事件時には,彼は巣鴨拘置所に拘留中であり,事件の現場にはいなかった。

彼の名を一躍高めたのは,同年4月26日国会突入デモであろう。唐牛に関しては,佐野眞一 “唐牛伝” から引用する。

安保闘争が最盛期を迎えた60年4月25日のことである。ブント書記長の島は焦っていた。このまま推移すれば,安保条約は自然承認される。国民を味方につける行動に打って出なければならない。(中略)全学連幹部たちが新宿で酒を酌み交わしたとき,唐牛は思いつめたように言い放ったという。
「もう決死隊しかない。俺がトップバッターになって装甲車を乗り越えて飛び込むから,その後,俺に続いて飛び込んでくれ」

翌日の4月26日,国会前に行くと,警察の装甲車とトラックがぎっしりと埋め尽くしていた。どう考えてみても,この分厚い壁を突破できるはずがなかった。

誰もがそう思った瞬間,唐牛が一世一代のアジ演説をぶつことになる。
「諸君!自民党の背後には一握りの資本家がいるに過ぎない。しかし,我々の背後には安保改定に反対する数百万の学生,労働者がいる。装甲車の後ろには警官隊たちによって辛うじて埋められた真空があるだけである。恐れることは何もない。装甲車を乗り越えて国会に突入しよう!」

この直後,学生たちが,続々と装甲車を乗り越え警官隊に向って “ダイビング” を始める。

あまりの意表をつく行動に,さすがの警官隊員たちも算を乱して逃げ出した。

唐牛は逮捕されて巣鴨の住民となり,2日後に北大を除籍となる。

同年6月19日安保条約が自然承認されると,全学連活動も急速に衰退。翌年7月唐牛は委員長を辞任する。

時代の英雄となった唐牛に,醜聞が襲いかかる。
昭和38年(1963年)TBSラジオが “ゆがんだ青春 ― 全学連闘士のその後” と題するドキュメンタリーを放送する。

「安保闘争の闘士たちが,『右翼の親玉』でCIAともつながりを持つといわれる田中清玄から400万~500万もの闘争資金をもらい,今も田中の庇護のもとにある―」

左翼の最先鋭部隊だと思っていた全学連が,こともあろうに転向右翼からカネをもらっていたというニュースは,それまで彼らに親近感をもっていた人びとの見方を百八十度変えさせた。

唐牛は,安保闘争に係る裁判中,田中清玄(1906~1993年)の経営する会社に入社していた。田中は記す。

自分は全学連委員長唐牛君に関する記事を読んで想わず目を瞠った。唐牛君も自分と同じ函館で成長して居るではないか。母一人子一人と云う唐牛君の家庭も亦全く自分と同じ家庭条件だ。

郷土と生い立ちを共有する田中と唐牛の親交は深く,唐牛は,田中の子供たちをスキー旅行に連れていくこともあった。

唐牛と田中清玄の親密な関係は,家族ぐるみの付き合いだったと聞いていた。

昭和26年(1951年)生まれの田中清玄の次男 愛治は,60年安保闘争の時は小学生である。この少年は,青年 唐牛をどのように見ていたのであろうか。
少年は長じて政治学者となり,平成30年(2018年)戦後第12代 早大総長に就任する。

田中の会社を退社した後,昭和40年(1965年)唐牛は,堀江謙一とヨットスクールを創設したり,昭和43年(1968年)新橋に小料理屋を開いたりする。

阿部により早大史に残る155日間闘争が終息した後,今度は東大闘争が始まる。昭和44年(1969年)1月唐牛は駒場キャンパスの8号館に立てこもる学生たちに,ヘリコプターによる食料の空輸を思いつくも,この空輸作戦は実施には至らず。同月18日から19日にかけて,機動隊による安田講堂封鎖解除をもって,東大闘争も終結する。

この直後である。唐牛が真喜子とともに四国遍路に旅立つのは。

昭和44年(1969年)2月 唐牛が四国遍路へと向かった理由は,唐牛と真喜子のこころの中に封印されている。

唐牛没後,生前の真喜子への佐野によるインタビューである。

四国霊場めぐりの発案者は?
「まあ,二人でしゃべっているうちにそうなったってことですかね」
それは安保のことがからむんですかね。
「いやあ,これは本当に話すとややこしいので,話せません(笑)。たぶん彼の中では絡んでいたのかもしれないですね。それももう聞く機会がないので,忖度する以外ありませんが,絡んでいたという気がしますね」

真喜子の発した「話せません」はあまりに重かった。夫を捨てた女と,妻を捨てた男。しかも男には絶えず公安の目が光っている。この霊場巡りは近松(門左衛門)の道行の物語に,映画「逃亡者」をプラスしたような緊迫した世界だったことを想像させる。

唐牛と真喜子は道ゆきの間柄であった。
長部日出雄のいう通り,4・26国会デモにより多くの学生の将来を閉ざしたことへの贖罪意識からの四国遍路であろうか。

唐牛が拘留中に発生した6・15国会デモは,デモ隊,警官を合わせて重軽傷者が1000人以上となる大惨事となった。
この時にただ一人亡くなったのが東大生 樺美智子(1937~1960)である。

唐牛と同じ年に生まれた樺は,唐牛について父親に話している。

「美智子がつね日ごろ,唐牛君のことをすぐれた指導者だと私たちに話していました」

当時,唐牛が樺のことを認識していたかどうかは不明であるが,宇都宮刑務所を出所後

樺の無念を一人背負うように唐牛は,彼女の墓参りに行っていたという。

全学連の他のメンバーにも打ち明けなかった唐牛の秘めた行動である。

唐牛の発心に同齢の樺美智子への弔いと贖罪はなかったのであろうか。

母一人子一人の境遇を生き,北大から全学連トップへと表舞台に躍り出た唐牛が,他人に悟らせることなく,樺の無念と娘を失った親の悲哀を背負い続ける。
独りよがりではあっても,それが唐牛のせめてもの美学ではなかろうか。

唐牛の四国遍路にはもう一つの謎がある。

真喜子への佐野のインタビューの続きである。

四国八十八ヶ所めぐりは半年ぐらいかかったんですか?
「いや,そんなにかけていない,一ヶ月くらいかな」

本当に八十八ヶ所行かれたんですか。
「うそです」
「27ヶ所。ニシチのカブでこのあたりまでかと思って(笑)」

第27番札所 神峯寺。
徳島を過ぎ高知県安田町の標高450mに構える。高知県内の札所では最高所にあり,車道も整備されていなかった当時,唐牛も “真っ縦” と呼ばれる急峻な遍路ころがしにあえぎ,たどりついた山門から黒潮を無心に瞰下したのであろうか。

唐牛は何故に神峯寺で打ち止めにしたのか。

第28番 大日寺(高知県香南市)へ向かう道に安芸市がある。唐牛が四国遍路でここを過ぎる昭和44年2月から3月,安芸市は,阪神タイガースファンにとって特別な場所であったのかもしれない。

安芸市営球場は,昭和40年(1965年)2月に始まる阪神タイガースのキャンプ開催地。阪神は,プロ野球ドラフト会議で法政大学 田淵幸一を1位指名し,昭和44年の入団が決定し大きく報道されていた。

付き合いのあった桐島洋子が唐牛のことを述懐する。

「あの人もヘンな人で,私のところで飲んだくれて寝ちゃっても,明け方になると,むくっと起き上がって,新聞を買いに行くのよ。新聞っていったって,政治面じゃなく,スポーツ面。彼はあくまでタイガースのことしか興味ないわけ」
当時の全学連の連中は唐牛だけでなく,全員がタイガースファンだったという。
「特に彼は熱狂的なタイガースファンで,わざわざスポーツ新聞を買いに行く」

遍路道沿いにある球場でのタイガースのキャンプ風景を,唐牛が見逃すはずはない。スポーツ新聞が恋しくなり,打ち止めにしたのか。

安芸市営球場を過ぎると,遍路道は芸西村に至る。
昭和29年(1954年)和食,西分,馬ノ上の3ヵ村が合併して誕生する。この地は,天保元年(1830年)頃から続く土佐藩の甘蔗糖産地であり,藩の専売品 “白玉糖” の伝統をいまに受け継ぐ。
土佐の甘蔗作付・製糖も寛政期にさかのぼる。

寛政年間(西紀1789年)殖産家,馬詰親音氏近習として江戸に上った時,(中略)製糖技術を習得し,帰藩後甘蔗苗を購入し,藩直営で製糖事業を始めた。

大庭景利「四国製糖史」

土佐にあっても,とくに和食(わじき)の地が製糖盛んであったことを伺わせる話がある。
かつて,幕政期の砂糖輸入地 “長崎”が,砂糖の代名詞として用いられていた。

あまりおもてなしの馳走がない時の挨拶に「うちは,長崎が遠うございまして」という言葉が残っている。これは「充分に砂糖を使った料理ではありませんが」という挨拶の意が込められている。

越中哲也「近世日本の砂糖貿易」

同様に当地の周辺では,“和食” が代名詞として,戦後に至ってもしばらく使われていた。

昭和三十年頃のこと,野市町の友人の家で,自家製のまんじゅうをごちそうになった。
「少々和食が遠いので旨くないけんど……」
言葉の意味が解らなく,返答に困っていると,このあたりでは「わじき」が砂糖の代名詞として,料理言葉の中に残されていると言うことであった。

門脇鎌久「砂糖繁盛記 その一」

敗戦により砂糖供給地 台湾を失った日本において,内地製糖業が盛り返しをみせた昭和25年頃から,芸西村周辺は一面の甘蔗畑が広がり,製糖所が10数ヵ所みられた。
この甘蔗糖の一大産地も,昭和40年頃には輸入糖の影響により勢いを失うものの,他の内地甘蔗糖地と比べて,十分に持ちこたえた土地柄といえる。

唐牛は,この芸西村 和食の道すがら,打ち止めを思い立つのではないか。
神峯寺から見た黒潮の海原と,和食周辺の甘蔗の名残りが合わさり,ある島のイメージが像を結んだのかもしれない。

四国遍路を打ち止めにして,唐牛が真喜子とともに向かったのは与論島。甘蔗栽培と製糖が主要産業の島である。

1969年4月,唐牛は東京から「蒸発」した後,真喜子を伴って四国八十八ヶ所めぐりを経て,鹿児島から与論島に渡った。沖縄が本土復帰するのは72年のことだから,この時点では与論島が日本最南端の島だった。

佐野眞一「唐牛伝」

“農業構造改善事業が大々的に行われていた”与論島に渡った唐牛は,土木工事に従事し,真喜子は,甘蔗刈りと砂糖の袋詰めをして糊口をしのいだ。

やはり甘蔗である。甘蔗が唐牛を甘蔗畑の島へといざなったのではないか。

第1番札所 霊山寺から神宅に至る甘蔗の名残り道に,発心となった樺美智子を弔い歩き,第27番 神峯寺からの太平洋の眺望に海彼の島を想像し,和食に至り甘蔗への無自覚なる意識を呼び覚ますのである。

北大生 唐牛は,糖業改良意見書立案者 新渡戸稲造(札幌農学校)の後輩である。
東大生 樺美智子(兵庫県立神戸高等学校)は,矢内原忠雄(兵庫県立第一神戸中学校)の直系の後輩である。
唐牛は“かつての東大ポポロ座事件にしても,警察の学園侵入を粉砕してきた”として,矢内原が総長として,事件に決然と臨んだ姿勢を評価している。

元全学連委員長としての失われることのない闘争心と,60年安保闘争の犠牲者への贖罪の念を身にまとい,四国から与論島へと,さらなる巡礼に旅立った,そのように思いたい。

黒糖のやさしい風味と甘味は,傷ついたこころを癒してくれる。
北信濃の山里で,継母(さつ)との関係に苦しんだ一茶(弥太郎)をかばう祖母が与えたのも黒糖であった。

「さからうでね。あれァ,おっかねや女おなごだに」― さつの留守,そういって祖母は弥太郎をなだめ,手早く黒砂糖をまぜた蕎麦だんごを作り,「さ,食っちめや」と微笑わらった。皺だらけのその笑顔が,弥太郎のすくいだった。黒砂糖は壺に入れ,水屋のおくにだいじに蔵われていて,さつが来てからは,めったに口にできなかった。

嶋岡晨「小林一茶」

寛政期に讃岐から伊予へと吟行した33歳小林一茶

機動隊による東大安田講堂封鎖解除を見届け,阿波から土佐へ,そして与論島へと巡礼した32歳唐牛健太郎

苦悩の幼少期を過ごした二人が,日本の甘蔗製糖の画期となる時代と土地を,互いに分かち合って歩いた ”甘蔗の道” である。(終わり)

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