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南北戦争

人権のための戦争?お金のための戦争?


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アメリカ、サウスダコタ州にあるラシュモア山に、4人の大統領の石像がある。

左から、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーン。

今回の「南北戦争」でカギとなるエイブラハム・リンカーンだが、なぜ現在でも変わらず尊敬され、歴史上最も偉大な大統領の中の1人とされているのだろうか。

そして、実際のところリンカーンはどのような政策を行ったのか。

南北戦争はどんな戦争で、アメリカの歴史にとってどんな意味があり、現在のアメリカにどんな影響を与えているのか。

解説していきたいと思う。

「南北戦争」

英語で表現する時は、Civil War (内戦) となる。読んで字のごとく内戦なのだ。

”アメリカが北と南に分かれて内戦を起こした”

これが南北戦争の全てである。

では何が原因で起こったか。

多くの人は、奴隷制度に賛成か反対かでケンカになったと知っているはずだ。しかし、それはとても不十分な理解であると言えよう。

南北戦争が起こった本当の理由は、

”北部と南部で経済構造が全く違ったから”

これに尽きる。

世界史を学んだことがない人は、え?経済関係あるの?と疑問符が浮かぶかもしれない。

しかし、この”経済構造の対立”こそ、南北戦争の背景を理解するのに欠かせないエッセンスなのである。

そしてこれは何も、南北戦争時代のアメリカに限った話ではない。前に特集した穀物法廃止、そして4月号で特集するフランス革命”経済構造の対立”が原因で起こったものだ。


この二項対立は歴史を理解し、現代の世界情勢も理解するのにとても大事なものなので、ぜひ”経済構造の対立”を頭に入れながら物事を見ていって頂きたい。

では南北戦争が起こった流れを説明していく。

そもそもアメリカに黒人奴隷が入ってきた経緯は産業革命の項でも話した通りだが、三角貿易によるものだ。イギリスなどから銃や綿製品がアフリカに渡り、アフリカから黒人奴隷がアメリカ大陸に渡った。

特にアメリカ合衆国南部では黒人奴隷を綿花のプランテーションで働かせて大量生産し、輸出していた。

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じゃあ北部はどんな産業があったのかというと、工業がメインであった。

南北戦争が1861年に起こったが、1830年頃から、アメリカにも産業革命の波が波及し、本格化してきたのだ。

これこそ、南北戦争が起こった構造的な原因である。

北部は工業がメインで、新しい産業としてドンドン力を伸ばしてきている。人口も急激に増えて力を増してきている。工場で働く人が必要だが、奴隷のような単純労働ではなく、もっと高度な人材を育てなければいけない。だから奴隷制度には反対。奴隷廃止派の共和党を支持する。自国の工業を保護するため、関税をかけて保護貿易をするべきだ。
南部は、綿花のプランテーションなど大規模な農業、一次産業がメイン。大量に効率的に生産しなきゃいけないから、とにかく安い労働力が沢山必要。工業に押され気味になって影響力の低下に焦っている。たくさん作ってたくさん輸出したいので、関税を下げる自由貿易に賛成。奴隷存続派の民主党を支持する。

この、”奴隷制を存続するか維持するか” の議論は、日を追う事に増していった。

既に、1774年から86年の間で、ロードアイランド植民地など、ジョージア植民地を除く全ての州が奴隷制度を禁止していた。ただ、アメリカは建国後も西側にどんどん拡大を続けていた。その際、新たに合衆国に加わった土地が州に昇格するが、奴隷州自由州かを都度決めていたのだ。

1848年にアメリカがメキシコとの戦争に勝利すると、テキサスやカリフォルニアがアメリカに加わった。

奴隷存続派と廃止派の対立が色濃くなってきた頃、1860年にアメリカ合衆国大統領選挙が行われ、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。

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そして、同年12月にはサウスカロライナ州が合衆国からの脱退を宣言。翌1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も合衆国からの脱退を宣言した。

これらの州が集まって建国されたのが、アメリカ連合国である。

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この旗を見たことのある人も多いのではないだろうか。いわゆる南軍旗で、アメリカ連合国の国旗にもなった。

1861年3月、リンカーンが正式に大統領に就任すると、南軍は北軍の要塞を攻撃し、南北戦争が始まった。

南軍は残った奴隷州に連合国へ合流するよう呼びかけ、5月までにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州も連合国に合流した。

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(南軍・アメリカ連合国のテリトリー)

南軍は当初、士気の高さや優秀な将軍が南軍側についたことで善戦したものの、北軍の圧倒的な人口と資金力には太刀打ちできなかった。北部と南部にはこれだけの差があった。

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また、南部が海外との取引に頼っていることに目をつけ、海上封鎖を行い、ジリジリと体力を奪っていった。そして来たる1865年に北軍の勝利で幕を閉じた。

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と同時に、これはアメリカという国が痛みを伴って産業構造を一気に転換したことを意味する。

北軍が勝利したことで、保護貿易と工業化がアメリカの方針となり、強い連邦政府が誕生したのだった。

一方南部は荒廃し、奴隷が使えなくなったことで一気に不況へと陥ることになった。北軍による占領で南部の再建が進められたが、この時の傷を引きずって現在の南部の貧困問題にも繋がっていると言われているほどだ。

二項対立の構造を理解することは、歴史や現在の世界を理解するのにとても役に立つ。だってまさに今世界は、アメリカと中国という2大国が派遣を争っているのだから…








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