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雑学マニアの雑記帳(その19)算帳

その昔の話である。数学者であり、計算機科学の研究者でもあった某大学教授の講義が印象的であった。講義の中で、「算帳」「算譜」「算料」といった聞きなれない言葉が多用されるのである。通常は「ファイル」「プログラム」「データ」と言うべきところを、独自の訳語が使用されていたのだ。
この先生は、こういった科学技術用語の日本語訳の普及を推進されていた。しかしながら、残念ながらこれらの独自訳語が広く使われることにはならず、すべて原語を単純にカタカナで表記したものが使われるに至っている。これらの言葉にかぎらず、コンピューター関係の用語のほとんどはカタカナ表記で普及している。一例を上げると次の通りだ。

インターネット、フォント、ウイルス、キーボード、マウス、サーバ、セキュリティ、ソフトウェア、インターフェイス、マイクロプロセッサ、ログイン、等々

コンピューター用語の中で、新たに提案された造語が定着している例を探してみても殆ど見当たらない。思いつくのは、ファイル名の一部を構成する「拡張子」という言葉くらいである。これは、例えば「abc.exe」というファイル名の中の「exe」の部分を指す言葉で、原語をそのままカタカナ表記すれば「エクステンション」と呼ばれるであろう言葉が、何故かこれは「拡張子」の方が使われるに至っている。この言葉が普及に至った経緯は不明だが、このようなことが起こるのは例外的と言って良いだろう。
それでは、日本においてはこういった造語の普及は困難を極めるものなのかというとそうでもない。明治期以降、多くの専門用語が日本に入ってきたが、当初は次々に造語に訳されて、やがて定着していった歴史がある。たとえば、

物質、情報、細胞、重力、炭素、電池

など、多くの造語が今では全く違和感のない日本語として日常的に使われている。数学用語に限っても、次のように枚挙に暇がない。高校数学のレベルで、カタカナ表記の用語といえば、「ベクトル」くらいしか思い当たらない。

微分、積分、三角関数、自然対数、常用対数、指数、極座標、漸化式、媒介変数、方程式、共役複素数、近似式、原始関数、高次導関数、純虚数、数列、接線、法線、絶対値、双曲線、等々

それに対して「算帳」や「算譜」といったコンピューター用語の訳語(造語)は違和感を拭いきれず、容易には受け入れ難い雰囲気がある。この違いはいったい何なのだろうか。
以下は一つの仮説だ。今日、カタカナ表記が好まれるのは、明治期と現在とで、英語に対する理解度の違いがあることに起因するのではないだろうか。英語教育が一般的ではなかった明治時代においては、わけの判らない横文字よりは漢字の造語の方が受け入れやすかったのではないか。一方、現代では、誰でもある程度の英単語には馴染みがあるため、見慣れない造語よりも、カタカナ表記の英語の方がすんなりと受け入れられるのではないだろうか。例えば「インターネット」を中国語風に「互連網」と訳そうと呼びかけても、現代人には「インターネット」の方が馴染みやすいのであろう。
もし仮に原語が英語ではなく、多くの日本人が読み書きしたことがないであろうアラビア語であったなら、「アルイントレント」対「互連網」といった馴染みのないもの同士の争いになる訳だ。これなら「互連網」にも分があるかもしれない。
理由はいずれにせよ、現代の日本では、新たな翻訳造語の誕生は極めて難しいもののようである。もちろん、「virtual currency」→「仮想通貨」のように新しい言葉が造られることはあるが、これは既知の訳語の組合せでしかなく、新規の造語とは一線を画す。
さて、そうなると今後は、新しい翻訳造語は稀にしか造られない貴重な存在となりそうである。その稀な新語として、今後どのようなものが出てくるのか、楽しみでもある。ここで、ひとつ期待したいのが太陽系の第九惑星名だ(科学技術用語というよりは固有名詞であるが)。近年、その存在可能性が高まっているこの星、仮に発見されたとすれば、慣例に従ってギリシャ神話やローマ神話の神様の名前が付けられるだろう。それに「○王星」といった新しい造語の和名が付けられる可能性があるのではないかと思う。ただしその場合、原語での命名後すぐに然るべき機関が和名を決めて発表しないと、原語のカタカナ表記の方が先に浸透してしまう可能性もある。言葉というものは浸透してしまったら勝ち、という側面がある。メディアで連呼されれば、最初は違和感があってもすぐに慣れてしまうものである。後からそれを覆すには相当なエネルギーが必要となる。
新惑星発見の際には、どのような結末となるやら、今から楽しみである。

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