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電波鉄道の夜 89

【承前】

 安堵して緊張が解けたのか、殴られた頬がずきずきと熱を持ったように痛み始める。夜風がひどく沁みる。顔をしかめながら殴られたところを触っていく。腫れてはいるけれども、骨までは折れていないようだ。
 意識が薄れかかる。ふわりと浮遊感。慌てて意識をつかみ取る。馬の首筋にしがみつく。しっとりとした感触が心地よい。
 ゆっくりと深く呼吸する。肺に新鮮な空気が送り込まれる。随分久しぶりな気がする。そうだ、もう煙はいないのだ。少しだけさみしい気持ちもする。この痛みに息苦しさが加わると相当に不快だったかもしれないけれども。
 腫れた瞼で下に目を凝らす。明かりはもう遠い。男ももう追っては来ないだろう。遠いところから叫び声がかすかに聞こえる。ケモノの遠吠えのような荒々しい怒鳴り声。何を言っているのかわからない。意味のあることは言ってないのかもしれない。もう言えないのかもしれない。人間は取り込んだものでできている。視力は人間の認識の大部分を占めるのだから、眼球が変われば意識も大きな影響を受ける。人外の域へと逸脱しつつある者の眼球を取り込めば、人格が豹変したとしてもおかしなことではない。
「渡したの、良くなかったのかな」
 語り掛ける。答えはない。そうだ、煙はもういないのだ。馬ももちろん何も言わない。胸の中にはまた空白が現れていた。語り掛けた言葉はその空白に呑みこまれて返ってこない。
 ゆっくりと頭を振る。鈍い痛みが頭を覆いつくす。視界がくらむ。
 くらんだ視界の遠くに灯りが見えた気がした。
「あれは?」
 独り言。小さな光。痛みの中に見た幻覚だろうか。
「見えるかい?」
 馬に語り掛けてみる。明かりを指さしながら。馬は指の先を見て頷いた。幻覚ではなかったのだろうか。ゆっくりと馬が進路を変える。遠くに見える灯りの方に。
 馬の背に揺られながら灯りを見つめていると、だんだんと夜の闇とその遠くの灯りに視界が染められていった。

【続く】

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