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電波鉄道の夜 111
【承前】
「いいよ。どうせまだ始まらないさ」
男が言う。静かな声は無人の会場に反響せずに染み込むように消えていく。
僕はおずおずと立ち上がり、男の隣に立つ。
「ここが誰のステージかわかるかい」
わからない。首を横に振る。そうか、と男は呟いて、すっと目を細める。遠い目。後悔、憐憫、憧景の混ざりあった表情。
「でも、君はまだ大丈夫さ」
男の目が僕の目をじっと見る。僕の目はどんな色をしているのだろう。
「まだ失くしたことを覚えている。探し続ける意思がある。せめてそれだけでも持っていればいい。そうすれば」
男はそう言うと、どかり、と椅子に腰かける。立ったままの僕を見上げて言葉を続ける。
「そうすれば見つからないともわからない」
その声にはむしろ男自身の願望が込められているような気がした。
「あなたは見つからなかったのですか?」
だから、僕は問い返す。男はどんよりとした目で頷く。
「ああ、失くして、それっきり。いつの間にか失くしたことも忘れて、ただ何かが足りないと思い続けて、気がつけばあんな有様さ」
ため息。男は舞台袖に視線を送る。誰かの登場を待つように。
「あの子はね。いつだってそこにいる。でも、それは突然どこかに行ってしまってもおかしくないってことなんだよ」
空白。
もうとっくに開演時間を過ぎて、それなのに暗転もしなければオープニングのあの曲も流れないような。けれども立ち去りがたくて客席に座り続けるような。そんな空白を見つめながら男は言葉を吐き出す。
「一緒に探していた奴らもみんなどっかに行っちまった。一人一人、いつのまにか」
乾ききった手が手首に巻かれた赤い布飾りを撫でる。それをゆっくりと腕から外した。それからぎゅっと手の平の中に握りしめる。
しばらくそうしてから、その拳を僕に差し出した。
「これ、やる」
「え?」
開いた手の平の上には燃えるような赤。酷く汚れにまみれて、それでも輝きを失わない鮮やかな赤。
【続く】
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