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Episode 204 意見をすり替えてしまうのです。

ASDのひとが苦手なこととして挙げられるものの中に、「サリー・アン課題」などの誤信念課題という心の理論の領域があります。
「相手の立場に立てない」ということが理論として導き出されるのが一般的ですが、私は「自分の立場にも立てない」ことの方が深刻だと、以前に指摘しました。
それはまるで私とあなたという一対一のできごとを、幽体離脱してスタンドからサッカーやアメフトの試合を見ているようだ…と。

ASDの人が誤信念課題に弱いと言っても、誰もが「サリー・アン課題」に引っ掛かるわけではありません。
ASDの人も齢を重ねるごとに経験を積み、その人なりに成長するのですから、誰でもいつでも同じシチュエーションで同じ失敗をするわけはないのです。
でも、それが「似たような」シチュエーションだとどうなのでしょう…私はあまり自信がありません。
子育てで子どもと接するとは、まさにこう言う「似たようなこと」だったのだ…と、今になって思うのです。

相手の行動に対して、私がこのリアクションを起こせば、相手はきっとこう返してくるはず…。
スタンドからアメフトのセットプレーを見ている様に相手と私の心理を一手に握って客観的にコントロールしようとする感覚でしょうかね。
両手に双方の感情を握ろうとするわけですから、片方は私の心理、もう片方は相手の心理です。
私の心理は私自身ですから良いとして、相手の心理は私のモノではありませんから「だろう」という仮定です。
更に…考えているのは私ですから、それは私の考えた相手の心理です。
問題は「相手の心理」と「私が考えた相手の心理」がすり替わることです。
いつの間にか、私の考えた世界だけになり、それを競技場のスタンドから眺めているように全体像を把握しようとする…と。

相手の気持ちが分からない…のは、「A」と考えるはずの相手が「A」ではなく「B」と考えるのは何故なのか分からなくなるからです。
「A」と考えるだろうと思っているのは私の考えた相手の心理、でも現実の相手はそうではなく「B」と考える。
「A」と考えているハズの相手が「B」と言うのは何でだろう?
つまり、自他の区別がつかない…とは、「自分の考えた相手の世界」をリアルの相手にすり替えてしまうことから起こるのだと私は思うのです。

相手が子どもである場合、そもそもの考え方が年齢相応に「幼稚」で、そこの指導と修正を加えながら意見を引き出す必要があるのだと思います。
でも、コミュニケーションの経験則を作る絶対数が私には不足していました。
指導と修正は「意見の誘導」に繋がり、答えが「A」になるように仕向けていたのかもしれません。

私の意見は理論的にはいつも正しい。
正しい方に導こうとする気持ちは、私の親心からの精いっぱいの子育ての方法でした。

でも、そこには何処となく漂う他人事の感覚があり、子供の意見をコントロールしようとする誤信念の迷宮があったのです。

「サリー・アン課題」は、立場が同じ2人の子ども…という単純例です。
でも実際の社会では力関係の違う2人の例が殆どで、さらには家族がいて、親類がいて、地域の人々や会社の同僚や上司・部下がいて…と、より複雑に、より高度になっているワケです。

子育ての立場の違いを飲み込めなかった…それは、結果的に「サリー・アン課題」の根本的な問題をクリアできない思考の偏りを抱えていることになると私は思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/4/6

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