見出し画像

Episode 522 根性で仕事はできません。

2020年の夏シーズンのTVドラマで、石原さとみ主演の「アンサングシンデレラ」って病院薬剤師の話がありました。
ドラマは薬剤師から見た医療現場と人間模様がメインなのですが、それとは別に、あのズラリと薬が並ぶ薬剤室で処方箋と格闘する薬剤師の姿を見ていて、私は何とも言えない気持ちになったのです。
仕事に対する日本人的な「根性論」みたいなもの…とでも言いましょうかね。

「仕事をする」ということをひと言で表すならば、「労働力を売ってその対価を得る」ということになるのかな…と思います。
対価になるものは「本人が納得できるもの」であれば何でも良いのだと思いますが、まぁ…一般的には「お金」でしょうね。
これの実感がしにくいものの代名詞なのが、「家事労働」ってあたりなのでしょう。
一所懸命にハウスキープしても、自宅であるが故に評価されず、対価が得られないと感じることも多いのだと思います。
だからなのでしょうか、せめて「いつもありがとう」のひと言でもあれば…なんて思っているっていうのは、チョコチョコと聞くハナシだったりします。

そう言う我が家はどうなのか…というと、パートナーと共稼ぎ、お互いに週休2日ペースの月間シフト制なので、突発の残業や繁忙期のやり繰りみたいな多少の凸凹はあっても、勤務時間数に大差はありません。
だから家事もお互いに半々ぐらいを「やっつけ」でパタパタと片付けることが多いかな。
食事の準備は休みの人がする、お互いに仕事の日なら先に帰ってきた人がする、そうこうしているうちに相方が帰ってきて、洗濯物を畳んで…とかね、そんな感じです。
どちらかに過剰な負荷がいかないことでバランスが取れているって感じでしょうかね。

でもね、外の仕事で労働に見合う対価としての賃金が支払われないワケには行かないのですよ。
労働力に対する対価である給与には、よく「高い」とか「安い」とか言う話が付き纏うのですが、労働条件として提示された内容に沿って勤務内容や拘束時間があり、それに同意した上で労働契約があるワケです。
そりゃ「高い」に越したことはないですけど、その「高い」仕事が私にできるのか…は、また別の話なのですよね。

私に与えられた仕事は、会社が求める作業量がこなせることが大前提になるワケです。
その仕事が余裕をもってラクに行えればうれしいですよね。
ここのところ話題にしている「カイゼン」とは、こういう話なのですよ。

ウチの会社の「伝票」の話をしましょうか。
伝票にはふたつの役割があってですね、ひとつは数量の管理、もうひとつは金額の管理なのですよ。
例えば営業マンが得意先との話の中で「分かりました、特売を組んでくださるということで、50ケースだけ通常の卸価格から10%値引きに応じましょう!」という条件で、商品Aの商談が成立したとします。
そうすると…伝票上は商品Aの、その得意先への総出荷量…仮に70ケースだとして、50ケースが10%引きの単価で、20ケースが通常単価での出荷ということになるワケです。
売上の管理上、単価別に伝票が切られる必要があるのは当然です。
でもね、出荷担当者には単価は関係ないのですよ。
50ケースと20ケース、2枚の伝票で2回に分けて作業する意味がない…だから、売上伝票とは違う、得意先への総出荷量である70ケースと、1行だけ記載された出荷伝票を使うことが提案されるワケ。

大したことは言っていないように感じるかもしれませんが、実はこれ…バカにならないほどの効果があったりするのですよ。
ひとつの得意先についてだけではなく、10ある得意先でそれぞれ発生したら、作業回数は20回から10回になるってことなのね。
さらにはひとつの商品だけ扱っているワケではない、複数のアイテムで同じことが起こったらどうなるか?
当然、手間も時間も失敗する可能性も格段に減少する、同じ労働時間でダブルチェックできる余裕になったりするワケですよ。
つまりこんな風にラクに作業ができる方法を考えて実行することを「カイゼン」というワケ。

会社としては当然、商品の出荷/配送にかかる経費を「必要なコスト」として計上しているのですが、出荷ミスの可能性は計算していないのね。
当然なのですよ、お客様に間違えた商品/数量が届くことを予定するワケがないのですから。
だから出荷の担当者は、出荷ミスが起きないように出荷前に何度もチェックして、出荷後にも在庫量の確認をして、もしも仮にミスが発見されてもお客様に届くまでの間に正しい商品と差し替える努力をするのです。
可能な限り与えられた労働力を有効に使って、お客様に迷惑が掛からないように安定した出荷作業を行いたい…というのが、ピッキングチームの基本スタンスなのです。

ところが、ところがですよ。
「カイゼン」で搾り出した貴重な「余裕」を、経営側が「余剰」と判断すると、労働力の削減に繋がってしまうのです。

搾り出した「余裕」は、
チェックの正確さを生むための時間であり、
新人作業員に付いて新しい作業を教える時間であり、
新たな改善点を見つける時間…でもあるのです。

次につながる「余裕」を剥がされると、実質的な作業に掛かる時間だけが「裸」の状態で剥き出しになる…最終的に個人の能力に頼るところまで削られると「サイアク」です。

何を以って一人前の作業量と見るか?
「会社が求める作業量」が、どの程度なのか?
この基準がきつくなって、真っ先にこぼれ落ちる人たちがどんな人たちなのか、容易く想像できてしまいます。

冒頭に触れたドラマの薬剤師たちは、ドラマならではの「スーパー・パフォーマンス」を見せつけます。
ドラマとは言え、それを「仕事に対する情熱」…の一言で片付けられるのが日本の現実なのかな…と、私は残念に思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?