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Episode 596 "Away"の不利を知るのです。

今年も「Jリーグ」が開幕しました。
日本初のサッカープロリーグ「Jリーグ」が発足して公式戦を開始したのが1993年のこと…その年の春に大学を卒業した私は社会人一年目で、フレッシュマン。
それから29年、私の社会人生活と同じだけの月日が流れ、サッカーは日本で最も人気のあるスポーツのひとつになったと思います。

世界的に人気が高いサッカーという競技を、日本でもメジャーなスポーツに押し上げた「Jリーグ」の功績は高いと思います。
その人気とともに競技としての技術や知識は瞬く間に浸透した上に、文化としての新しさをもまた、サッカーは運んできたのだと思います。
例えば、「Jリーグ」は、企業にスポンサードされた広告塔としてのスポーツがメインだった日本に「ホームタウン」という感覚を持ち込むキッカケになった…とかね、そういうサッカーが運んだ風はあると思うのです。

もちろん「Jリーグ」よりも遥か前からプロスポーツとして人気があった野球にも地域を基盤とした「フランチャイズ」の制度はあります。
でも、それはあくまでも「その地域についての興行権」という点からの発想で、地域に根差す…と言う視点は弱かったのだと思います。
競技の人気は不動のものとしてプロ興行と育成が切り離された野球とは成り立ちが違い…サッカークラブの「ホームタウン」には、競技に親しむ環境を地域に整備することを求められるワケで、必然的にサッカーをメインにした地域貢献活動が必須になるワケです。
それはサッカー先進地域の欧州各国のクラブチームがそうであるのと同じように、日本にも地域を地盤としたサッカー文化を根付かせようとした明確な意志があったのだ…と、私は理解しています。
クラブ名に都市名を掲げ、スポンサー企業名を認めないのには、こう言う背景があるワケです。

それ故に、積極的な地域参加を進めるサッカーは、野球などと比べて地元愛が強いワケで、ホームゲームでのサポーターの声援は大きな力になる一方で、アウェーチームにとっては大きな脅威になり得るものなのだと思うのです。

なぜ私がことハナシをしたのか…と言うと、社会的マイノリティは常に「アウェーの戦い」の環境にいることを具体的にイメージするためです。

前回の記事でお話ししたのは、世の中は多数派に有利にできていて、多数派が自らの都合で標準的とする範疇を「普通」と呼ぶのだと言うことでした。
コミュニケーションの分野で「普通」の範囲に収まらなかったASDの私が「特異」と位置づけられるのは、ASD的なコミュニケーションが多数派である定型者には「違和感のある不都合なもの」として映るからで、それは多数派主体の相対的な価値観の中で語られるものだと指摘したのです。

その一方で、生活を営むとは「社会の通例を受け入れて恙無く暮らす」ことがベースにあるワケです。

マイノリティの「マイノリティたる部分」は多数派の不都合でしかない…という理論上の正論は一度棚に上げて、多数派との摩擦を減らすための手立てを考えないと、多数派優位の世の中での生活はままならないのです。

サッカーのゲームは「ホーム&アウェー方式」という方法で、地の利をトータルとしてフェアにしようとします…もちろんクラブの主催試合という収益の問題でもあるのですけど。
ただ、それぞれの試合単体で見れば、完全なホームと完全なアウェーに二分されるワケです。
いくら鍛え上げられたプロであっても、アウェーの雰囲気の呑まれることは…あり得るのでしょう。

サッカーは競技としてルールがあるワケで、ファウルと判断されればホームチームの選手であろうがアウェーチームの選手であろうが平等にペナルティが与えられるのですが、スタジアムからの印象は必ずしもフェアではありません。
「えー!今のがファウル?」という反応は、ホーム側の選手に多く感じるハズで、その逆に「えー!今のはファウルだろ!」という反応をアウェー側の選手に感じやすい…みたいなね。

アウェーの環境というのは、こういう「心情的アンフェア」が既にベースに敷かれていることが多いのです。
先に書いた通り「Jリーグ」のゲームは基本的に「ホーム&アウェー方式」ですから、同じチームとそれぞれのホームで1回ずつ対戦して「あおいこ」です。
これがずっとアウェーで対戦することになったら…どうかな?

地の利の無い海外で生活する…というシチュエーションも、これと同じような「心細さ」という心理的なハードルを想像しやすいように思います。

このハナシは直接「障害」に関係することではないかもしれません。
ただ「障害」というのは、こうして社会に置かれていくものなのだ…ということを、想像してほしいものだと私は思うのです。

最後にこのツイートを。


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