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Episode 595 普通は普通じゃありません。

ふ‐つう【普通】
[名・形動]特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。また、そのさま。「今回は普通以上の出来だ」「普通の勤め人」「朝は六時に起きるのが普通だ」「目つきが普通でない」
[副]1 たいてい。通常。一般に。「普通七月には梅雨が上がる」
2 (「に」を伴って)俗に、とても。「普通においしい」

小学館の国語辞典「大辞泉」のデジタル版には、このように「普通」という言葉が解説されています。
これに対する言葉は…「特別」「特殊」「特異」「奇異」といったあたりでしょうかね。

ASDという発達障害だと診断された私は、対人コミュニケーションの分野が一般的な「普通」の範囲におさまり切れませんでした。
そのことが原因で、言動に「特異」や「奇異」を感じるさせることがあるようなのです。
ただ…当事者の私は、それをなかなか「オカシイ」と感じられないのです。
なぜならば、生まれながらのASDである私は、ASDの感覚しか経験していないから。

先天的ということの問題については以前にも話題にしたので、そちらをご覧いただくとして…ところで。
どうして私は「普通」ではないのでしょう…と考えると、やはり「少数派だからだよね」という答えに行き着きます。

「社会は多数派に有利にできている」ということについては、左利きの私を題材にしてお話ししたのですが、つまり多数派が有利な世の中の「多数派の部分」が「普通」を作る出している…ということですよね。
ASDの私は、対人コミュニケーションの分野で「ありふれていない」…ということになるワケです。
「普通」の人たちがあたりまえの前提で想定した範囲の中におさまらない何かが違和感を作り出すワケですよ。

でもね、定型と呼ばれる普通の人が多数派を占める世の中だから、私たちASDは「非定形」と分類されるワケで、定型者とASD者の人口構成が逆転してしまったら、ASDが定型となり、非ASDが非定型になってしまうのですよ…「社会は多数派に有利にできている」からね。

ASDが多数派になったと想定したとき、社会はASD者に有利なように進化するワケです。
当然、非ASD者は「社会的マイノリティ」として、ASDに合わせた社会に対応することを迫られることになるハズです。
ところが、非ASD者は「先天的に非ASDである」ために、ASDの思考パタンを100%理解することが出来ず、想像することしかできないのです。
これは、「欠損の自覚をするのです。」の記事の中で、先天的なASDは定型者の感覚を100%は理解出来ず、「こうだろう」と想像するしかない…と指摘したことの裏返しのハナシです。

さてさて、定型のあなたがASDの私に「普通」を求めるとはどんなことか。
もしかしたら、それは「定型者の真似をして生活しなさい」…と強要しているのと変わらないかもしれません。
世の中はマジョリティである定型者が有利なようにできているのだから、有利な方に合わせるのは理に適っているように見えます。
ただ、マイノリティであるASD者は、自覚していようがいていなかろうが、そんなこと言われるまでもなく百も承知なのですよ。
自分の持てるだけの能力を使って、定型有利の社会で生きる方法を学んできたのです。
ただ、定型と呼ばれる人が持ち合わせる対人コミュニケーションスキルが弱いASDの私は、弱い部分を何かしらでカバーしようと努力した結果、入口と出口をショートカットで繋ぐ「ブラックボックス」を編み出すことになるワケです。

定型の方がASDの立場からASDの思考パタンを理解することは出来ません。
想像できるのは、マイノリティの立ち位置からマジョリティの社会で生きていく難しさだと思うのですよ。
例えば、定型者の感覚が通用しないASD優位の社会でマイノリティである定型者が生き抜くには、理解できなくても、カタチだけでも、ASDの感覚の真似をしないとならない…かもしれません。

定型者が一般論として指す「普通」とは、「マジョリティに有利な社会のマジョリティの感覚」のことが多いのです。
「普通」って、いったい何なのでしょう…。

あなたが指す「普通」は、何を基準にした普通なの?
私が指す「普通」は、何を基準にした普通なの?
「自分が思う普通の枠」から出ないまま相手に「普通」を求めることの危険性は、もっと議論される必要があると私は思うのです。

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