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Episode 211 全て同じではありません。

ASDという発達障害を持つ私にとって、「カサンドラ症候群」や「毒親」は、かなり痛い言葉です。
私の立ち振る舞いや言動が、身近な家族を傷つけたり不安にさせたり…。
実際にそのような「迷惑」をかけて私は生きてきました。
ただ、分かって欲しいのは、私は家族を愛していなかったことは、一度もないのです。

私は、ASDのコミュニケーションが独特なのは、脳機能の一部の領域に不具合があって、そこを迂回する思考回路を独自に編み出すからだと指摘しました。
不具合の場所の前で思考停止するなんて、ありえないのです。
だって人間だもの。
社会で必死に生きていこうとする私たちは、持ち合わせた知恵を使って生活しようと試みるのです。

小さな子どもだって、自分の持っている知識と語彙を使って必死にコミュニケーションを取ろうとするのです。
大人はそんな子どもたちを見て、年齢相応の成長を感じるワケです。

「障害を持つ」とは、障害を持つ部分を単純に切り落とすワケではありません。
切り落とされた部分があることで発生する不具合を、如何にカバーするか。
不具合には次のステップが必ずあるのです。

身体障害についてが一番わかりやすいですね。
例えば事故で、右足を欠損してしまったとします。
失ってしまった右足を元通りすることは不可能です。
では、その場で立ち尽くすのですか?
きっと答えはNoでしょう…失ってしまった右足が無くても立てる方法を、動ける方法をきっと考えるハズ。
松葉杖を使いますか?
義足を考えますか?
車いすということもあり得ます。

本当はそんなに簡単ではないことは分かっています。
足を失った精神的なショックや、その人ごとのモチベーションや体力の問題もあります。
端的に示すためにそう書いてしまいましたが、本当はもっと難しいハズ。

発達障害は身体障害と違い、目に見えません。
見た目は普通の人と変わらないから、余計に「宇宙人」っぽく見えてしまうことがあるのだと思います。

カサンドラ症候群や毒親は、受け手側からの印象の問題です。
普通に見えるから「普通の回路」で思考していると思うところにズレが発生するのだと思います。

残念ながら、通行止めになっている部分を回避してものごとを考える迂回路を使っている都合、ASDである私は「普通の回路」での思考ができません。
でもそれは、使える部分を使って社会で生きていこうとする知恵であることも理解してほしいのです。

私は、自分のパートナーがカサンドラ症候群に悩み子どもの立場から見て毒親だったと自覚する部分があります。
でもそれは、ASDである私自身が私の身近の人との関係性の中で思うことであって、一般論ではありません。

メディアでカサンドラ症候群の特集があったようです。
ASD者と定型者カップルの関係が、洩れなくカサンドラ症候群になるような偏見が広がらないことを祈ります。

発達障害に限らず、マイノリティの啓発活動の難しさを感じずにはいられません

旧ブログ アーカイブ 2019/4/13

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