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Episode 200 自己中心を悔いるのです。

「毒親」という言葉がありまして、子どもが厄介と感じるような親のことを揶揄する俗称なのですが、私は最近これが「家庭内パワハラ」の類になるのだろうな…と思うのです。

会社でのパワハラの問題は、ここ数年で社会的な大問題になってきていて、企業に対してパワハラの防止を義務化する流れに繋がったわけです。
私が勤める会社でも「パワハラとは何か」の定義からの啓発活動を始め、全社員に向けて講習会を実施するなど、管理系の人たちが「あの手この手」の行動を開始しています。
変なところで変な噂が立てば、SNS経由のネット拡散で「悪事千里を行く」どころかあっという間に地球一周のこのご時世、何としてもそんなことは免れなければならないのは民間の営利企業で喫緊の課題になっているワケです。

そんな企業内の講習会で力を入れて話される内容は…
信頼関係が大事、日常のコミュニケーションが仕事をしやすい環境を作る。
受け手がどのように感じるか、嫌がらせ・被害を受けたと感じればパワハラ。
…の、2点。
パワハラに限らず、セクハラもモラハラも…結果的に受け手の肉体的・精神的な苦痛が、ハラスメントなワケで、社会的な立場を利用した嫌がらせがパワハラですよ…と言うことです。

ハッキリ言って、これって昭和な世界では普通にあった話ですよね。
体罰も当たり前の時代、「アタックNo.1」ではバレーボールを雨のように投げつけられ、「スクール・ウォーズ」では「これからお前を殴る!」ってグーパンチ。
それを普通に受け止めていればパワハラでも何でもないってことなんでしょうかね?
そこに信頼関係があったから?

DVの被害者って、加害者の暴力を暴力として受け止められなくなるって聞いたことがあります。
児童虐待も、言い出せない親子の力関係がある…。

DVの加害者も児童虐待の加害者も「これは暴力ではなくて躾」だとか「愛情表現」だとか言って加害を認めないことも多くあるようで、結果的に加害者側と被害者側って、ものすごく温度差があるじゃないですか。

力がある側の理論がまかり通ってきた昭和時代、それが曲がり角に差し掛かった平成時代…ってことでしょうかね。
立場的に下の人間の人権を見つめなおして尊重しようとすれば、自ずとハラスメント防止の方向性が導き出されるわけです。

ところで…。
相手のために良かれと思ってしていることが、相手の苦痛だった場合ってどうなんでしょうね。
どこでその「加害」に気が付くのか?
それが明らかな暴力でない場合は難しいですよね。

私はコミュニケーション能力に問題があります。
相手の思考が私の頭の中で理解できないと、考えが前に進まなくなります
小さな子どもの思考が理路整然としているとは思えません。

子どものことを一生懸命に考えた私の行動が「毒」になっていたのではないか?
それは「青酸ソーダ」のように猛毒の即効性があるものではなく、「アスベスト」のように静かに体内に溜まって肺を侵すような、家庭内の空気中に漂う塵みたいなものだったのではないか?

子どものことを思って言った、私のその言葉が子どもを縛り、苦しめたのではないか?
会社でのハラスメント講習を聞きながら、毒親的な家庭内ハラスメントの可能性に胸を痛める…。

私はキチンと父親だったのか…と改めて問い直すのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/4/2

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