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Episode 258 伴走者が必要です。

発達障害者にとって定型発達者の反応というのは意外と普通なのです。
学校のクラスでも社会に出てからも周りにいる殆どの人が定型発達者で、定型発達者がする行動についてあまり不思議を感じたりしないことが殆どです。
でも、その逆は成り立たないのです。
これは以前にも指摘したことですが、マジョリティはマイノリティの存在を発見しやすく、マイノリティは自分自身がマイノリティであることを発見しにくいのが当事者としての私の感覚です。

私の場合、自分自身がASDというマイノリティであるという自覚に至ったのは、二次障害を発症して苦しい思いをして、さらに仕事での挫折を繰り返して、やっとたどり着いた診断結果があって初めてでした。
形のないものを信じられない私は、「ASD疑い」という診断にならない曖昧さを受け入れることが出来ず、医師の診断結果を以て初めて自らの発達障害を認めたのです。
その一方、パートナーはとっくに私の発達障害に気が付いていて、それを「穴に逃げ込む」ことで上手くかわしていたワケです。

仕事上では「三人称の私」が事務的に活動するので表面的な対人関係は築けます
でもそれ以上の親しい関係を作り上げるのは難しく、親友と言われる友達や、旧友と呼ばれる旧知の仲は殆どいないのが実情です。
恐らく…「なんか普通の感覚が通用しないやり難いヤツ」を近くに置いておきたくないと思うのでしょうね。
基本的に「仲の良い友人」とは、近くにいても疲れないヤツでしょうから。

この辺のマジョリティとマイノリティの関係は、定型者とASDのカップルに大きな影響を与えていると私は思います。
私がASDを自覚して、夫婦の関係を考えた時に「お互いの歩み寄りが大事」ということを第一に考えたつもりです。
先日もブログに「お互いに目線を合せる努力をしたい」と書いた通りです…でも。

世の中は定型者が過ごしやすいように出来ていて、それ故に家庭内も世の中で過ごしやすい方向に寄せた方が社会での生活はしやすいのです。
まして、家族が増えて子どもが社会性を広げていく状況となればなお更のこと。

定型者とASDのカップルでは、結果的に定型者のパートナーの方がより多くの負荷を背負うことになると私は思っています。
というのも、発達障害者である私は、発達障害を抱えながらも定型者の作った社会で生活してきました…今までも、これからも。
それは、この世の中を「こんなもの」と思うことが出来るという話でもあります。
ある程度「ズレていることになれている」と、言い換えることもできるかもしれません。

ところが、定型者であるパートナーは、ASDである私が「ズレている」ということにいち早く気が付きます。
つまり、結果的にそれを指摘して調整するのは定型者であるパートナーの役目になってしまうということです。
私の経験上、ASDの特性から発生する「ズレ」を自ら発見して修正することは、かなり難しいことです。
それこそ「ヘレンケラーの水」のような衝撃がないと…。

お互いに目線を合せる努力とは、綱引きの綱の両端をお互いに引き合うようなものでは…多分ないと思います。
私にとってパートナーは、努力する方向を示してくれる道標であって、視覚障害を持つランナーの伴走者のような人なのかもしれません。
私が走る速さに合わせてくれることが、目線を合せる努力ということでしょう。
私がパートナーを引き摺っても、パートナーが私を引き摺ってもダメなのだと、私は思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/5/30

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