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Episode 618 「ない」の答えは出ないのです。

その「必要」は、能動的か受動的か?

前回に引き続き今回も、「ペルソナ」というワードにまつわる人格/パーソナリティの形成についての見解です。
前回のnote記事は、「私は、一般的には『心の理論』の獲得が能動的に行われると気がついた」…ということについての驚きが話題でした。
それが如何に衝撃的な出来事だったのか…というと、その衝撃だけで記事一本分書けるほどのことだったのですよ。

人格/パーソナリティを対外的に見せるための「ペルソナ」の形成は、あなたとの意見調整をするために編みだされたコミュニケーションツールである…というのが、ASDである私の見解だったのです。
このことは、ペルソナ(仮面)という対外的な人格が上手く作れなかった私は、ペルソナとよく似た「お面」を被る…という表現で以前にお話しした通りです。

ところが、前回記事で私は「人格/パーソナリティの対外的に見せるための『ペルソナ』の形成は、自分自身を知るための方法でもあり、自分自身を知ることは『快楽』である」と知らされてショックを受けるのです。

ASD側から見るとペルソナの形成は、社会で上手くやろうとして「トライアンドエラー」を繰り返した結果として身につくものなのだろうと想像したのですが、まめさんは「あなたを介して私を知る『喜び』のために身についてくるもの」と表現するのです。
この認識の差は大きい。

そうすると、定型一般から見たASDの私は、ギブアンドテイクで得る情報がない相手となり、あなたを知ることで得る「私を知る快感」の機能不全を起こす相手ということになる…なのかも知れません。 
「私を知る快感」というキーワードは、心の理論を考えるための大きな要素かも…と感じます。

私の思っていた「ペルソナ」の形成とは、社会生活を送る上でどうしても必要になる意見調整/意思疎通をするためのツールとして「Try and Error」の中で編み出される「受動的なツール」という認識だったのです。
でも、定型であるマジョリティ側の意見としては、

コミュニケーションで
「あなたってこういう人なんだ!」を交換こして
自分を知っていく作業は
「快楽」としか言いようがない

であるワケだから、「Give and Take」を求めるための意見調整/意思疎通ツールとして「能動的」に作りあげられるもの…という認識になるワケです。
ここから浮かび上がるASDである私の特徴は、「自分自身への興味の無さ」です。

「自分への興味の無さ」は「個性・性格」の形成に大きな影響を与えるのだろうと思うのです。 
「ペルソナ」の形成に必要な自分への興味がないから「私はこんな人」があなたに示せず、「Give and Take」の「Give」が成立しないワケです。
当然ながら、あなたからの「どんな人なの?」という「Take」に応える術もありません。 
ASDが必要に迫られてペルソナの代わりに身に付ける「お面(擬態・外モード・演技)」は、ペルソナという「私を自ら知る過程」で形成されるキャラを用意出来なかったからこその代替品なのですから、お面が正しくペルソナの代替機能を果たしていることを確かめる行為は必要になる…ではないか。

回りまわって最初の問いに戻る…。

ASDの私が外からの体裁を気にする理由は、「化けの皮」を剥がされて「お前は何者か」と問われた時に、応えるための自分(ペルソナ)を持ち合わせていないからなのかも…とか。

壮大なブーメランが突き刺さる先は「持ち合わせていない感覚を考えても、絶対に答えは浮かばない」という事実でしょうか。

対外的な個性を掌る個性ってなんだ? 
対外的な個性を掌る人格(パーソナリティ/ペルソナ)…だよな。
 そのペルソナを作る感覚がない(弱い)ことによる「気付きの欠如」はあると思うのですよ。
 何と言うのか…そうですね、数学的な「ゼロ(0/無)」の発見に近いのかも知れません。

誤字の部分は適当に丸めて読み直してくださると嬉しいです。
ASD的な自分への興味とは、私の認知パタンや思考のクセを読み解くハナシであって、それは確かに自分自身を深く知るということではあるのだけれど、「私はこんな人」という自己開示を含めた自己形成とは違う気がしてきたのです。

自閉とは、自分自身を開示することへの興味の無さが作り出す「能動的な人格形成の欠如」という一面があって、結果としてコミュニケーション不全などの諸問題を引きおこされるのかもしれない…などと思うのです。

前回に引き続き、まめさんのこの記事を参考にしております。
合わせて読むと面白いかもしれません。

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