見出し画像

Episode 592 トラウマも影響するのです。

ASDの私は、私の考えを持ちながら、それを表に出すことが得意ではありません。
そこには、私の考えとあなたの考えをすり合わせる能力の弱さがあり、私の意見を通すことで周囲を傷つけ、自らも傷つくという苦い経験(トラウマ)があるのだと理解しています。
それがどんなに正しいことでも、自分の意見を表明するのには喉を通る気持ちが声にできるのかどうかだと分かっていながら、恐怖で声にならないワケですよ。
原因が分かっていても防衛反射が起こる…そんなイメージです。
だから、本当は間違えていても間違えていないと思える「社会的常識」というものに頼ってしまう事がある…トラウマの克服というのは、言葉でいうほど容易なことではないのです。

前回の記事で、ピンチになった時に「助けて!」と言えずに不安を隠すASD的な「かくしごと」のハナシをしました。

その中で、ASD的な「かくしごと」は、自分の優位を保つために頼る「社会的常識」に頼れない状況の時に発生する自閉の持つコミュニケーションの弱さに原因がある…と指摘しました。
その奥には、コミュニケーションへの不安から発生する「自己完結」があるのだと思うのです。

そういえば、以前にASD的な「自己完結」のハナシを、『千と千尋の神隠し』に登場するカオナシを題材にお話ししてことがありました…。

知っての通り「カオナシ」は、千が仕事をする油屋というお風呂屋での様子を具に観察し、千が欲しがっている(だろう)モノを提供しようとして上手くいかず、逆上するのですが…。

私はこの「カオナシの逆上」と「不利を誤魔化すかくしごと」が、同じ枝葉の出来事に見えるのです…というのも。

このふたつを繋ぐキーワードは、いつも私の言っている自閉の本質「自分の気持ちのコントロールができない」です。

「自分の気持ちのコントロールができない」自閉性質は、あなたが傷つくことへの理解ができず、あなたが気持ちの融通をし始めても、私の「我」を突き通すことになる…大人にここを咎められるワケですよね。
咎められないように「何らかの融通する手段」を編み出さなければならないASDの私は、自分を封印した上で、あなたが何を考えているのかを観察する様になる…ではないか?

これは、2021年7月の私のnote記事、『後天的な性質です。』という記事の一節です。

「カオナシの逆上」は引用した文章の通り、あなたが望むものを探して正解を当てに行く行為で、それが不正解であることへの不満が噴出したものです。
一方で「不利を誤魔化すかくしごと」は、引用した文章の中の「咎められないように『何らかの融通する手段』を編み出さなければならない」時に、手段を編み出せないピンチが発生した…と考えると、どうでしょう。

このふたつの共通点は「あなたとのコミュニケーションが欠落している」という点です。
そしてそのコミュニケーションが取れない原因こそが「自分の気持ちのコントロールができない」という自閉の本質であり、定型社会でのコミュニケーションの基礎になる「私の考えとあなたの考えをすり合わせる能力」の弱さを指摘され咎められることを繰り返した結果、自分の意見を言うことへの恐怖心がトラウマとして残る…そう考えると視界が開けてきます。

このふたつを繋ぐ意味は、極めて大きいと私は思います。
なぜならば、「カオナシの逆上」の解説だけでは、ASDの自己完結性がトラウマと結びつくことを説明しきれないから…。

なぜ素直に自分の本当の気持ちを言葉にできないのか、そこにトラウマを抱えていると分からなければ、「そんなに簡単なことを…」と思うのかもしれません。

私は自分自身のASD性を知り、「出来ないことがあるし失敗もある」とわかって、私はどのように思っているのかを考えることで、少しずづ生活が楽になってきたように思います。
それでも、咄嗟の時に発生するASDらしい言動を消し去ることは出来ないのです。
それは先日の痛風の一件で、痛みを隠してしまう点でも明らかです。

1年以上前のツイートですが、改めてこれを。

そして、そのASDらしい行動や言葉には、ASDの本質ではなく、定型社会で生活する上での苦い経験に起因する「トラウマ」の影響もあり得るのだと思うのです。

自分自身で「私はASDである」と理解して自分と向き合うとは、自分の傷の存在を認める作業でもあると、そんなことを思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?