Episode 692 自分のことを話すのです。
昔の歌番組で良く使われたこの口上…NHKアナウンサーだった「宮田輝」さんの言葉なのだそうです。
歌は時勢の影響を受けて変化し、世のさまも歌の流行によって影響される…と言う意味らしいです。
コレは歌に限らず、言葉なんかもそうなのだろう…と、私は思っています。
特に日本語というのは、ものすごく「クリエイティブ」な言語なのだと私は思うのですよ。
以前に私は、日本語の「創作単語の作り易さ」を題材にして記事を書いたことがあります。
この記事の中で私は、例えば「障害+人」と言う「障害を抱えた人」を指す言葉として「障害者」という単語ができたとしても、その「障害者」という言葉から「障害 with 人」がイメージしにくい…と指摘したのです。
「障害者」を、たとえ「障がい者」や「障碍者」と表記を変えても、日本語の構造的な特徴は変わらないのだと私は思っています。
その「表記」には、元の意味とは違う「音韻からのイメージ」が貼り付き易い…現実問題として、「他人の障害になる人」というイメージで「障害者」という言葉を理解している人は少なくないのだと私は思っています。
だから、悪いイメージがついてしまった言葉を別の表現に入れ替えることに、私はあまり意味を感じないのですよ。
「歌は世につれ、世は歌につれ」…歌はその時代を映す鏡ですからね、後から振り返って「古臭い」と思うことがあるように、「言葉は世につれ、世は言葉につれ」なのだと思うのです。
後にその言葉を使っていたことを自ら悔いることがあるとすれば、その世相に踊らされた私の無知と共に、私の脳裏に刻み込む必要があるのではないか…とか感じます。
最近、「カサンドラ」という表現が俄かに話題に上がっていましてね。
そう言えば私も、先日のnote記事で…
と書いているのですよね。
ここで私が話題にしている「カサンドラ」の意味合いとしては、ASD×定型(典型) の関係性の中で語られる情緒的交流の難しさからの「ASD当事者であるパートナーへの怒りや悲しみ」でして、ギリシャ神話に由来する「私(カサンドラ)の言うことを、誰も信じてくれない」と言う本来の意味とは違うワケです。
私はここで、日本語のイメージとしての「カサンドラ」を記事に使ったワケですが、このnote記事に対しての「カサンドラの誤用」の指摘は(今のところ)一件もなく、「ASDをディスるカサンドラ」と表記しているにもかかわらず、「それはおかしい」と言う指摘も(今のところ)一件もないのですよ。
それは何故なのか?
恐らくですよ、その記事の主題が「何でASDは何も考えていないと言われるのか」の理由を、ASDの私ごととして、私の中に原因を求めることにあるからです。
言ってしまうあなたのことに私は言及していないし、言われてしまうASD当事者の代弁もしていないからです。
先日アップした記事には、次のような一節があります。
コレはね、定型(典型) 側にもそのまま当てはまるのだと私は思うのです。
ASD当事者の自己理解は、多数派社会をサバイブする上でも重要な視点ですから、その深度に個人差はあるにしても、恐らく誰もがすることになる、その比較の対象との対比は当然必須になるワケです。
一方の定型(典型) 側は、自らの感覚で社会をサバイブすること自体はASD当事者ほど難しくないでしょう。
でも、ASD当事者と生活を共にしようと思うのなら、ASD当事者の感覚を想像する中で、定型である自らの感覚をより深く理解する必要があるのではないか…と。
ASDは何も考えていないのか…に対して、ASDの私は、私が思う「何も考えていないと思われる私自身の中にある理由」を考えて書きました。
コレに文句を言う人は(今のところ)ひとりもいませんでした。
では、ASDは何も考えていないのか…に対して、定型(典型) のあなたが思う「何も考えていないと思ってしまうあなた自身の中にある理由」は何なのでしょうね。
他責に繋がる言動が言葉のイメージと繋がるから、その言葉が蔑称として機能するのでしょう。
人のハナシではなく、私のハナシをしよう。
それが大事なのだと、私は思うのです。
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