Episode 690 それが基本かもしれません。
以前から感じていることなのですが、(障害を含む)先天的な特性を自発的に自覚することは、先ず無理なのだと私は思います。
先天的な特性を持つとは、それが障害であっても、超人的なパフォーマンスを生み出す特殊な能力であっても、本人の感覚だけで特性を自覚することは難しい…。
自分の特性を理解するとは、比較の対象の理解と同時進行なのでしょう。
定型(典型) と呼ばれる社会的多数者の感覚を想像し、その深まった理解との乖離を自分自身の中で特定するワケです。
ASDの自己理解とは、社会的多数への想像と理解の裏側にあるのかもしれません。
前回のnote記事「扱い方が『モノ』なのです。」の結びで書いた…
…は、ASDの本質が「他者視点がない(弱い)」であると仮定して(科学的に立証されていないから断定はできない)、ASD的なエピソードを内側から読み解くと言うことです。
現象面をスタートにして「何でそうなるのか」を探ってみるスタイルではなくて、「他者視点がない(弱い)」ことが「どうしてその現象を生むのか」…という対岸から見たASD視点の理解ができれは面白そう…とか思ったのですよ。
そうですねぇ…例えば「ASD的なリンク切れのハナシ」とか、どうでしょう。
このハナシの要点は、「自分が心地よくいられる回転数(思考量)をキープするASDの私」です。
過集中って言うと、自分の能力を超えて120%のパワーを発揮してしまう…みたいなことを想像してしまいがちだけど、実際はそうではないのだと思うのですよね。
はるまき(@41harukaze)さんのツイートが表す通り、「自分の意識(能力)をひとつのことに全振りすること」と言うのが、私の感じる過集中のニュアンスに近いと思います。
この「自分の意識をひとつのことに全振りすること」が、ASDの能力特性のデフォルトであるとしたら?
「他者視点がない(弱い)」をASD思考のベースに置いた時、「自分の意識をひとつのことに全振りすること」は、簡単に想像できます。
「心の理論」の獲得がまだ弱い幼児・児童が、自らの遊びに没頭する「あの集中力」をどのように説明するか…と問われた時、「周囲の視線をガン無視すること」は、その理由として大いに説得力のあるものになると思います。
つまり、他者視点を気にするとは、集中した状態でも自分の位置を確認することにリソースを割いている…ではないか?
他者視点がなければ、このリソースを割く理由はありません。
「全集中の呼吸」と言えば、吾峠呼世晴先生の大ヒット漫画「鬼滅の刃」に登場する、鬼殺隊の剣士が人智を超えた力を持つ鬼に対抗する為に、身体能力を飛躍的に向上させることを目的に使う特殊な呼吸法の事なのですが、ASD的な過集中は、そう言う特殊に習得したモノ…ではないように思うのですよね。
裏を返せば、他者視点に一定のリソースを割いている状態からの「全集中の呼吸」なら、その特殊性に納得…でもあるような気がします。
ハナシが逸れてしまいましたね。
恐らく、ASDの私としては、過集中状態の方が心理的にラクなのだと思います。
もちろん、その後になって体力的な限界を超えて活動してしまい…倒れるなどという副作用の心配はあるにしても、それは心理的問題を扱うここでは一旦横に置くとして、その過集中状態を作れない場合、精神的安定を求めて手持ち無沙汰の分を何かで埋める必要がある…と言うセンはありそう。
度々引用させていただいている、さいこどくたーK(@psydrk)先生の、このツイートですが…。
この「二次的な他者視点」の人工性を考えた時、環境の中の自分をモニタリングする分のリソースが、必要分として常時確保されない可能性はないか…?
「ASDのリンク切れ」と言う現象を考えた時、過集中状態をこそASD的な他者視点の無さ(弱さ)そのものの可能性はあり、周囲への配慮や環境の中の自分の測定は、社会生活を送る上で重要なことであると理解はしていても、自分自身の心理的居心地の良さとの両立が難しいとしたら、無意識のうちに真っ先に弾かれるのは何か?
これは私を題材にした思考実験です。
科学的な根拠もありません。
ただ、この思考実験を巡らせるにあたり、心地よい過集中の感覚は確かにあった…そんな気がするのです。
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