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Episode 555 面が割れてしまうです。

私の住む地域では毎年6月30日〜7月2日にかけて、地域の子どもたちが楽しみにしているお祭りがあります。

「蒲原まつり」と呼ばれるそのお祭りは、蒲原神社で行われる稲作の豊凶を占う神事なのですが、それはそれ…。
子どもたちにとって「お祭りの楽しみ」と言えば、なんと言っても出店で遊ぶことでして、小遣いを握りしめて祭りに向かい、「焼きそば」を食べて「りんご飴」を齧り、「的あて」や「金魚掬い」に興じる…そんなハナシであることは間違いないのだろうと思います。
お祭りでアニメや特撮もののキャラクター「お面」を買ったことがある方も多いハズ。
今回のお話は、そんな「お面」のハナシです。

前回の記事で、ASDの私は社会性を纏うという意味での「ペルソナ(仮面)」を作れず、素顔のままで人格の形成が上手くできなかった…と指摘しました。

ただ、ASDの私と言えど「自分の意見の調整が難しい」から…といって、自分の思うとおりに行動しているワケにはいかないのです。
振り回した私の「我」は、あなたを傷つけるかもしれない。
多くの方は「我」にまつわる「トライ・アンド・エラー」を経験する過程で「ペルソナ」を形成するワケですが、これが上手くいかない私は、社会で生活していくために「ペルソナ」の代わりになるものを用意する必要があったワケです。
これが世間で言われるところの「外モード/擬態」だと思うのです。

「我」を折り曲げて、尖った部分を調整する「社会性の形成」がパーソナリティとか人格とか呼ばれるもの、つまり「ペルソナ」。
それに引き換えASDの私は、自我を完全に後ろに隠し、信憑性の高い社会的常識を移植するワケです。
即ち、自分の考えに裏打ちされた人格である「ペルソナ」ではなくて、私の考えをほぼ反映していない建前である「マスク」だということ。

このマスク、当に「露天商のキャラクターお面」みたいなものだと思うのですよ。
だって、あれを被って「ヒーロー/ヒロイン」気分になってみたところで、本物のパワーも能力も出るワケが無いのですよ。
お面が「飾り」であるのは、誰が見ても明白なのです…それを被ってなり切ってご満悦の本人以外はね。

ただ、それはお面でしかない…というのは事実なのです。
そのお面には私の考えを反映するペルソナの要素はありませんから、お面の裏側から自我が覗いた時、お面の主が持つ人格とは違う別人格がチラつくことになるワケです。

おそらくASDの人も、社会で生きていく上で「社会性を身に付ける必要がある」ということ自体は気が付いているのです。
ただ、その社会性が形成されなかったから、必要に迫られて「顔を作る」ということを行うのだと思うのです。
自分の血肉と馴染まない表面だけのお面をつけて演じるのは、なかなかの努力が必要です。
この「演技」の上手さ下手さ…という個人差はあるにしても、「お面だね」と見抜かれたときに、面が割れて正体が露わになるのだろうと思うのです。

自分がお面を被っている…ということを指摘され、「あなたの正体は何だ?」という問いかけをされてから、自分の正体は「のっぺらぼう」であるという障害の受け入れまでに掛かる時間は人それぞれだと思います。

この面が割れてから「Water ! 」を得るまで、ここに障害受容の辛さと難しさが詰まっているのだと思います。
ここを乗り越えることができるか…は、当事者とそれに関わる人の地道な関係に委ねられることになるのでしょう。
そのひとつの理想として、ヘレンとサリバン先生の関係性が上げられることになるのだと私は思うのです。

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