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Episode 497 新語が死語を生むのです。

師走になり、今年も「新語流行語大賞」みたいな今年の総括を語る季節が来ました。
今年の漢字は「密」、流行語も「三密」だそうで、covid-19の影響をモロに受けた内容だなぁ…と。

さて…私はというと、再び「障害者」という言葉について考えています。
障害者は大きく分けて「先天性の障害者」と「後天性の障害者」の二種類があって、その区分で行くと…私のようなASD当事者は、先天的な障害者ということになります…ところで、障害者って何?

英語による「障害者」の表記はこんな感じ…

この記事を読むと、
1. person with disabilities
2. disabled person
3. handicapped person
4. impaired person
5. challenged person
という、少なくても五つの表現がある…とされています。
英語に疎い私は、その感覚をダイレクトに感じることは難しいのですが、それぞれにニュアンスが異なるようです。

何れにしても、英語って「名詞化しにくい言語」なのだな…と感じます。
何でも簡単に名詞化できる日本語の、固定的なイメージで名詞化された「障害者」よりも「こんなひと」を単語をつなげて表現する分、「ちょっと柔軟」な気がしますが、どちらの言語でも共通なのは、「普通」と呼ばれている人から見て「障害を抱えているね」…ってニュアンスで言い表されているってことです。
つまり、健常者・定型者がデフォルトである…ということです。
社会を牽引しているのは定型・健常と呼ばれるマジョリティの方々で、ごく稀に障害を抱えた方が定型・健常が主体の社会で大活躍をしているケースがある…というのが今の世の中の現状でしょうね、きっと。

この異なる言語の「障害者」という表現の「何が違うのか」と問われれば、「障害がある人」という表現ではなく「障害者」という一括りの単語になる日本語に対して、「person=人」とそれを形容する「disabilities=障害」が別の単語の列記で表現することだと私が感じているということは、前述した通りです。
私はこの単語か連語かという違いが、考え方の差を作り出しているのではないか…と思うのです。
具体的に言えば、「person=人」が独立した扱いを受けているのか…ということに注目しているのです。

引用したネット記事によれば「最近は①の表現が好まれる」とのことで、時代によって日本語で言うところの「障害者」の英語表現が変化しているように書かれていました。
この表現の変化が可能であった理由は、「person=人」が独立した扱いだからなのではないか…と私は感じるのです。

振り返って日本語の場合…。
恐らく上記の英語表現に置き換えた日本語は②③④辺りが妥当な感じがします…少なくとも私は、日本語の「障害者」という単語から「人 with 障害」という感性を感じないのです。
日本語の場合、「障害者」は既にひとつの単語として扱われていて、先天的なのか後天的なのか、身体的なのか精神的なのか…という「どんな障害者なのか」を追加することは出来ても、言葉の構造上「障害を抱えた人、それは〇〇」という単語として成立する以前の「障害+者」をイメージし難いのだろうと思うのです。

これは私のイメージの話ですが…
英語はコアなイメージとダイレクトでつながる単語表現があり、それを崩すことが難しいから単語を繋げて意味を形成するのだと思います。

その一方で日本語は、漢字という表意文字を媒体にして、意味を漢字にねじ込んで「語呂の良い新語」をひねり出すことができると感じます。
そして新語には新たな意味が与えられる、単語を作るということに関しては、柔軟性の高い言語なのだろうと思うのです。
その言語としての柔軟性は外来語にも如何なく発揮され、3文字・4文字の略称が多く作られる…と私は思っています。

「障害者」という「障害をもつ人」というふたつの言葉が合わさって出来た言葉は、漢字と言う媒体によってひとつの単語に集約され、新たな意味を持つ…これは日本語として普通に発生する進化です。
ただし、意味を持った途端に出来上がった言葉は進化を止め、立ち止まる。
日本語に「死語」が多いのも、このあたりが原因かな…と。

私は「障害者」という単語を眺めて、健常者・定型者に対しての言葉…と感じます。
日本語で「人 with 障害」の考え方は、なかなか難しい…。
日本で各種の啓発活動が難しい理由は、このあたりの言語構造上の理由もあるのではないか…「障害者」という単語を眺めて、ボンヤリとそんなことを思うのです。

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